白夢の繭

WRO特別収容プロトコル (1) / リブクラ / pixiv

 厚い扉を開けて中に入った途端、片隅のベッドから声が聞こえた。
「リーブ」
 顔を巡らせると、のそのそと寝台を下りようとしている〝それ〟が目に入った。右腕でぬいぐるみを抱えた〝それ〟は、ともすればふいと光を失ってしまいそうな、儚い目をこちらに向けてきている。
「おはようございます。下りなくても大丈夫ですよ」
 寝台以外は何もない空間を横切り、彼は〝それ〟のもとへ歩いていくと、伸ばされた左手を取って目の前に膝をついた。陽の光をあまり浴びていない、陶器のように白い手の甲を撫でてやると、〝それ〟は気持ちよさそうに目を細めた。今日は機嫌が良いようだ。
「朝ご飯は食べましたか?」
「食べた」
「今日は誰が来てくれました?」
「……バレット、だったと思う」
「そうですか。バレットさんは久し振りですね」
 うん、と〝それ〟が頷く。本当に嬉しいようで、さっきからくふくふ笑いが、猫のぬいぐるみに押し付けた口から漏れている。今日は何も実験をしない方が良さそうだと判断した彼は、ゆっくり立ち上がると〝それ〟の隣に腰掛けた。ベッドが彼の重みの分沈むのに任せて、〝それ〟の体が傾ぎ、彼にもたれかかる。朝食のすぐ後だから、まだ体に力が入らないのかもしれない。
「リーブ、今日は、しごとはいいのか」
「お昼過ぎまでゆっくりできそうなんです。そこで一つ提案なんですが」
「なに?」
「ランチ、ご一緒しても良いですか?」
 その途端、〝それ〟の顔がぱあっと花が咲くように明るくなった。よほど嬉しいのか、彼の肩口にすりすりと頭をすりつけてくる。金の糸のような髪の毛がふわふわと顎先をくすぐり、思わず笑ってしまった。
「くすぐったいですよ」
「リーブとごはん、久し振りだから」
「嬉しいですか?」
「すごく」
 そうですか、と彼は笑って、〝それ〟の頬を優しく撫でてやった。

 ——〝それ〟は何も知らない。
 彼はリーブではないことも、食事を運んだ人間がバレットという名前の人間ではないことも、そして〝それ〟が見知っている人間は悉くこの世にはいないことも、〝それ〟は知らない。
 ずっとずっと長い間、〝それ〟はずっと、時間の流れさえも忘れ去って、四角い筺の中にいる。

 昼食を食べたら眠くなったのか、ぬいぐるみを抱きしめたまま穏やかに眠る〝それ〟に布団を掛けてやると、彼は四角い筺の中から出た。厳重かつ重厚な二重扉をくぐり、清潔な見た目からは考えもつかないほどに幾重にも凶悪な殺戮な機構が施された廊下を通り抜け、さらにその先の重い扉を網膜認証で開ける。閉まりきるまで待っていたら、不意に後ろから声がかかった。
「——久し振りだな、博士。調子はどうだね」
「ああ、お久し振りです。わざわざこんなところまで、どうしたんですか」
 そこに立っていたのは、長年の同僚だった。黒いスーツに身を包んだ厳つい男は、深い苦労が刻まれた刻まれた顔をわずかにほころばせる。
「地下で息が詰まっているんじゃないかと思ってな。見舞いに来てやったぞ」
「監査課の課長が直々にですか?」
「本部からの伝書鳩も兼ねているんだ。確かここには、地下の癖に洒落た喫茶があっただろう。そこで本部の小言を聞きながら、コーヒーを飲む時間ぐらいは作れると思ってるんだが、どうだ」
 ふむ、と彼は自分の口髭に手をやった。午後からの仕事はさして急ぎではなかった。今までの結果を来月の中間報告にまとめるだけだから、特に今日中にしなければならないというものでもない。
「ご一緒しましょうか」
「そうこなくてはな」
 二人は昼間のように明るい、光の溢れる無機質な廊下を歩き出した。

***

「——〝あれ〟にずいぶん丸くなったな」
 豊かな香りが立つコーヒーを目の前にして、多忙なWRO総務部のうち、最も忙しいと称される課のトップはそう切り出した。本部からの各種通達を経てからの、雑談に入ったその瞬間だった。
「いや、〝あれ〟が丸くなったのか」
「そうですね、そっちの方が近い。抑制要素を確認してから、〝あれ〟は随分扱いやすくなったと思います」
 資料見ますか、と端末を胸ポケットから出して差し出したら、同僚は何回か画面を切り替えて「なるほど」と言った。
「さっぱり解らん」
「説明しましょうか?」
「それも要らん。どうせ解らんからな」
 清潔な木のテーブルを滑り、端末が彼の手元に戻ってくる。同僚はコーヒーカップに口を付け、一口飲むと、ふう、とあまり軽くはない溜息をついた。
「事案の発生から、大方落ち着いたというところか。本部も安心だろう」
 事案、の一言を口にした瞬間、同僚の顔に一瞬暗いものがよぎったのを、彼は見逃さなかった。

 事案0057と題された収容違反が発生したのは、今から数ヶ月ほど前の話になる。
 〝あれ〟が——WCP-001-Jが、収容施設を脱走したことによって、WROの警備の人間や研究員、機動部隊の人間が、悉く惨殺されたのだ。前々から、ヒトやそれに類するものに対する攻撃行動や殺意、憎悪は認められていたが、本人の身体能力が収容施設よりも上回っているのは想定外だった。施設の外に出た〝あれ〟は、目につく人間をほぼすべて、武装非武装の区別なく——偶然訪れていた同僚の部下達も、食い散らすように殺していった。事案が収束した頃には、〝あれ〟による犠牲者は二十を超えていた。〝あれ〟自身のクラスも引き上げられ、「禍つの狼」などという呼称まで付けられ、収容プロトコルも更新された。現在は研究の結果、抑制できる方法が判明し、事案から今に至るまで、〝あれ〟は暴走していない。
「抑制要素か。手綱——いや、首輪になってくれると良いんだが」
 茶請けにと注文したクッキーをつまみながら、同僚は呟いた。
「今までの検証の流れを見る限り、恐らくは——いえ、かなり高い確率で、なり得ると思いますよ」
 自分の好きな味を取られないようにさりげなく避けながら彼は同僚の呟きに応える。
「お前がそこまで言うとは珍しいな。確固たる証拠でもあるのか」
「言いましたよね、検証の流れを見る限りって。データの積み重ねですよ、積み重ね。なんならその資料を」
「解った解った、大丈夫なんだな。安心した。部下がやられた上に、貴重な同期のお前まで殺されてはかなわん」
「はは。あの子は私のことを殺したりはしませんよ、今のところはね」
「あの子、ね」
 一瞬だけ、二人の間に沈黙が落ちた。
 カフェのテラス席と、人工的に形作られた青空や街や木々の間を、乱数によって制御される自然に似せた風が爽やかに駆け抜けていく。その心地よさとは裏腹に、彼は目の前の友人が、少しばかり心証を悪くしているのを感じ取った。
「お前、最近〝あれ〟を人間扱いし始めたな」
「動物に対しても使うでしょう、この指示語」
「それはそうだが。……いいか、〝あれ〟は人間じゃない。俺も人間だとは思っていないし、本部もそうだ。〝あれ〟は〝あれ〟だ。愛らしいペットなんかじゃない」
「解ってますよ。何より目の前で見ていましたからね」
 だから大丈夫ですと言葉を重ねたら、同僚はしばらく怪訝そうな顔をしていたが、やがて「頼むぞ」と言ってくれた。
「俺の前ではまだ良いが、本部連中の前ではするなよ。大目玉食らうぞ」
「心得ておきます」
 彼は笑うと、すっかり温くなってしまったコーヒーに口を付けた。

 ——正直なところ、彼は〝あれ〟を、〝あれ〟と思ってはいなかった。

 事案0057発生時、彼はまさに惨劇に直面していたのだ。プロトコルに従い、閉鎖処置を行っていたまさにそのとき、一瞬間に合わず〝あれ〟が、〝あの子〟が、管制室の中へと飛び込んできたのだ。報告書ではその際に、偶然彼が最も強く作用する抑制要素を持っていたために、沈静化と収容に成功したとだけ記述している。
 しかし、実際の状況はわずかに違っていた。彼が能動的に動くよりも早く、〝あれ〟が自ら大人しくなったのだ。
 「会いたかった」と〝あれ〟は言った。
 「ずっとずっとまってたんだ」と、薄い施術衣をべったりと血に染めて、ぼろぼろになった猫のぬいぐるみを離すまいと抱きしめた〝あれ〟は、彼を見つめてそう言ったのだ。その時の、安堵とも喜びともつかない人間そのものである表情を、彼はしっかりと覚えている。
 ——もしかしたら、〝あれ〟は人間に戻れるかもしれない。
 彼に縋りつき、子供のように泣きじゃくる血塗れの体を抱きしめてやった瞬間から、彼の中で〝あれ〟は〝あの子〟になった。

(我ながら欲深いな)
 地上へ繋がる唯一のエレベーターの扉が閉まるのを見届けながら、彼は心中で苦笑した。
(人間に戻ってくれたら、『私』を見てくれるかもしれないだなんて)
 研究者失格かなと自嘲しながら、彼は地下の奥深くの、化け物を収用する筺へと戻っていった。

***

 ——〝あの子〟は知らない。
 愛した人がいないことも、愛した人だと思っている人間が別人であることも、この世界が最早全く別物であることも、〝あの子〟は何も知らない。
 収容から数世紀の間、〝あの子〟はずっと、時間の流れさえも忘れ去って、四角い筺の中にいる。

三度の飯が好き

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