[2018/12/31]ハデクラ

冥王様とオフの犬 / ハデクラ / 文庫ページメーカー

 遠吠えが途絶えたので見に行ってみたら、犬は案の定ずぶ濡れになってそこにいた。
「またやったのかお前」
 亡者の沼の淵、断崖絶壁の中でもただ一箇所だけせり出した岩棚で、ぐったりと横になっている犬を見下ろしながら呆れをあらわにしてやったら、犬はうっすらと目を開けて、そしてまた瞑った。何か喋る気もないらしい。
 それもそうだ、契約により冥王の加護を受けているとはいえ、生気を吸い取られることには変わりない。まつろわぬものゆえの妙な頑丈さで老いることはなかったようだったが、噛み付いたり文句を言ったりする気力はすっかり吸い尽くされたようだった。
「そりゃ自由にいろんなところ行って良いっては言ったけど、何もそう何度も飛び込むこたないだろ。オレも入ったことあるけど、この中めっちゃ怖いじゃん? 目チカチカするし、もうやめた方がいいぜ、うん」
 なんとかおこぼれにあずかろうというのだろう、縁まで伸びてくる亡者の手を遠慮なく蹴り飛ばしたら、亡者は恨みがましい目で見上げた後に、再び沼の底へと沈んでいく。
 飽くなき生へのこだわりは、誰もかれもがまんべんなく備える原初の衝動だ。いずれ人として還っていくというのに、定命の生物の魂にすべからく刻まれた欲は諦めということを知らない。このまま放っておいては引きずり込まれることが目に見えているので、少し早いが切り上げさせることにした。
「よっこらせ」
 首根っこを掴んで持ち上げたあと、念のため突然暴れ出さないように両手で抱え直す。
 今回ばかりは抵抗らしい抵抗もない番犬だったが、それでもまた薄く目を開け、じとっとした抗議の視線を刺してくる程度には元気があった。
「そんな目で見てもだめだぞ。今日の散歩は終わりだ」
「……ゥー」
「唸ってもだめだからな」
「……」
 すん、と途端に黙った犬の背中をグッボーイと撫でてやりながら、ふよふよと崖の上まで戻る。
 ——いまのこいつに、捜し物はここにはないと言ったらどんな顔をするんだろうか。
 名残惜しそうに沼を見下ろす犬が身を乗り出さないように押さえ込みつつ、そんなあまり意味のないことを考える。すぐ思いつくのは、さっきまで聞こえてきていたようなもの悲しい、実に好みの遠吠えが聞こえなくなるだろうということだ。誰かを呼ぶような、寂しく尾を引くあの声が聞けなくなってしまうのは少々、いやかなりわびしい。
(良い名物になってるしな)
 もう少しだけ聴いてたって構わないだろう。そのうち満足したら、冥界の奥深くに移している捜し物を持ってきてやってもいい。もちろん目の前にほいと出してやることはしないが。
「あーあーあー、もう冷えちゃって。帰ったら風呂だなこりゃ」
 なぜか上機嫌になってきたのでせっかくだし洗ってやろうとにんまり笑ったら、何を思ったのか腕の中の犬は途端にイヤイヤと首を振り手を突っぱねだした。
「おいこら何で今ので暴れるんだよ、意味わかんない何この子」
「ウゥゥ」
「ええーめちゃくちゃ機嫌悪いこわい」
 だが今暴れられたところで子犬の手をひねるようなものだ。
 不平不満をぎゅっと濃縮した唸り声を聴きながら、彼は鼻歌交じりで黄泉の神殿へと戻っていった。

三度の飯が好き

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