なぎ

エタバン後 ぺーぶいぺーいったはなし 
バカのつくカップルにしかならねえ たすけてくれ

 凪だ。
 そこだけ音が消えたようだった。乱闘のさなかにあって、ただその周辺だけ無音の世界として切り取られているように見えた。腰を深く落とし、集団に囲まれなからもそこに誰もいないかのように意に介さず柄に手をかけている。先程まであれだけ必死の形相を浮かべていたというのに、まるで何かが乗り移ったかのようだ。
 薄く開かれた唇から細い細い吐息が漏れる。
 途端、ぞ、と背筋を冷気が舐めた。
「は」
 なれろ、と言い切る前に深い緑がこちらを捉える。視線がかち合ったわけではない。キーンを通してどこかを見ている。泉のような静謐さがそこにある。
 ——さなか、風が吹いた。
 最近手に入れたばかりの、黒いコートの裾が視界の端で翻る。先程まで彼がいた場所には何もなく、ただばたばたと倒れていくこちらの味方がいるだけだ。
「か」
 そして、妙な音とともにキーンの足からも力が抜けた。地面と垂直になった視界の向こうでは、鞘に収めた刀を再び抜いた後ろ姿が、唯一生き残っていたキーンの仲間へ踏み込んでいく。僅かに見えた表情は先程の凪とは打って変わって、切羽詰まった焦燥感あふれるものだった。普段見慣れた、気の抜けた顔だ。
(なっさけねえ顔)
 先程とはまるで正反対の、あわあわという音が聞こえてきそうなほどばたついた挙動でそぐわない得物を振り回す様を見ながら、キーンはゆっくり目を閉じた。

***

 拗ねている。
 大型犬が拗ねている。いかにも不機嫌ですといった様子で尖らせた口に時折漏れる鼻息、そして話しかけても「ん」というごくごく低いトーンに、何より「自分は今機嫌が悪いです」と言いたげな顔。尻尾があったらきっとびたんびたんと床に叩きつけられているに違いない。
 だがなぜか、拗ねているはずなのに、キーンはこちらを抱き締めていて離さない。ちょっと水飲みたいとソファーから立とうとしても「ん」とがっちり腕に力を込めてくる。
「ちょっとキンちゃん」
 さすがに我慢できなくなってすぐ上にあるはずの顔を見上げる。すると一瞬だけこちらを捉えた金色の瞳は、すぐさまぱっと逸らされた。
「怒るよ」
「……んでだよ」
「キンちゃんが言うこと聞いてくれないから」
「今までオレ様が聞いたことあったか」
「ご飯作ってっていったら作ってくれたし迎えに来てっていったら来てくれるし昨日なんて俺のおねだりでゴムつけなかっ」
「ンアア!!」
「いっっったい!! なに!? 顎やめて!!」
 奇声とともにつむじを顎でゴリゴリと掘られてついつい悲鳴が上がった。
「……まだいたいわかってるけどさぁ。昼間の模擬戦でしょ」
 ムス、という効果音が聞こえてきそうなほど尖った口に、ああ図星かと確信する。
 たまの気紛れで放り込まれる勤務先だし、利用者の傾向を知っておくのもまあまあ良い経験にはなるだろうからと赴いてみたら、たまたま相手チームにキーンがいた。手を抜くのもお互いとお互いのチームにとって失礼だろうと考えて、慣れない刀を引っ提げて振り回して頑張ってみた。結果は向こうの勝ちだったからそれで機嫌が悪くなるわけもなし、他に思い当たる節とくればその途中で撫で切りにされたことだろう。
「必死だったんだよ俺」
「そいつはわかってるし負けたのはどうでもいんだよ」
「じゃあなんでそんなに拗ねてるの」
 他に思い当たるところはないのだが。
 手を上げてほっぺをつついたり、ぺちぺちと叩いたりしてみたが、強情な口はなかなか開かない。こじ開けてやろうかと逆に膝に乗って指を突っ込もうとしたら、鼻の頭に皺を寄せながら嫌がられた。
「わーったからやめろ」
「じゃあなんで拗ねてるのか教えて」
 形の良い薄い唇がもごもごと波打つ。
「…………オレだけがよかったから」
「どういう意味それ」
「テメェの! あんなん見るのは! オレだけでよかったっつってんだよ!!」
 突然音量が上がって思わず目をつぶってしまった。ぱちぱちと瞬きをして視界が開けた頃には、それまでの不機嫌な顔はどこへやら、少しばかり頬を赤くした悔しそうな顔がそこにある。
「……えっと、なに、どゆこと?」
「あんなかっこいいとこ見せられたら誰だってテメェのこと好きになんだろうが!!」
「はぁ!? いや……はぁ!? なんか変なもんでも食べたの!? どうしちゃったの!!」
「どうもこうもしねーよばーか!! ぽかん顔!! 緑頭!!」
「なにそれ!? キンちゃんののっぽ!! イケメン!! 勘違い女製造機!!」
「最後はテメェのことだろうが!!」
 勢いに任せた子供っぽい悪口の応酬。だがそれも長続きはしなかった。
「……かっこよかった。悔しい」
「負けちゃったのはこっちだからそのセリフ半分返すね」
「普段からああいう顔しときゃいいのに」
「さっきもぽかん顔とか言ってたけど何? ケンカ売ってる?」
「売ってねえよ事実だろ」
 に、と笑う黄金色にはさっきまでの不機嫌は欠片もない。結局何だったのかはよくわからなかったが、機嫌が直ったのならまあいいだろう。
 そのままじゃれついてくる犬の鼻先を受け入れながら、奔放にはねた頭をさらに鳥の巣にしてやった。

三度の飯が好き

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