これのつづき 
なんかこう……な……わかれよ……

 バイザーを外し、現れ出た額に唇を寄せる。擽ったそうに顔がしかめられたが掌が飛んでくることはなかったので、膝から下ろして沙汰を待つことはしなかった。大人しい身体を横座りに載せたまま、下士官に用意してもらった傍らの湯桶と小振りのタオルに手を伸ばす。ある程度水気を絞ったら、乾いてこびりついた血の痕にそっと添えた。
「熱くねえか」
「大丈夫」
 そっか、と応えて極力優しく暴力の痕を拭い去っていく。泥も血も全て綺麗にしたら、今度は血で固まってしまっている髪の毛だ。赤が滲んだタオルは一旦置いておき、清潔なタオルを湯に浸す。
「痛かったら言えよ」
「痛くないよ」
「まだ触ってねえ」
「治し切れてなかったら触ってなくても痛いよ。キンちゃんだって使ったことあるでしょ」
「あるけどよ、念の為だ念の為」
 蘇生器と言うだけあってリレイザーの力はすさまじかった。普段なら薬学院に担ぎ込まれるような怪我でもその場で瞬時に修復してしまうのだ。確かにキーンも世話になったことは何度もあるし、その効果は身をもって実感している。信頼を置いていなければ、矢弾や魔法、はたまたミサイルが飛び交う戦場になど持っていかない。ただ場所が場所なので、外側から綺麗にしつつ、柔らかい緑を掻き分けて傷の有無を確認し、そっと触れて違和感があるか、痛みがあるかどうかを確かめていく。
「丁寧だね」
 あらかた落とし終わった後で、されるがままになっていた身体が言った。呆れ半分、感心半分といった声音だ。
「悪いか」
「悪くないよ。キンちゃんの良いとこだよ」
「褒めてる?」
「もちろん褒めてる。それ以外になんかある?」
「嫌味と皮肉」
「ないよ今は」
 かすかな笑い声を漏らしながら、それまで大人しくしていた身体がキーンの胸板に寄りかかってきた。完全に椅子にするつもりのようだ。
「ふー、ありがとね。すっきりした」
「帰ったらちゃんと落とすぞ」
「えっキンちゃんが洗ってくれんの?」
「オレ以外がいいなら良いけどよ」
 拗ねないでよ、と胸元のぬくもりが笑った。拗ねているつもりはなかったが、面倒くさいのでそういうことにしておく。
「なんだったんだろうねえ」
 気ままなぬくもりが次に漏らしたのはそんな言葉だった。
「最初は普通の子だと思ったんだけど」
「だれかから聞いたんじゃねえの? 亡霊の宝の話をよ」
「根っこは冒険者かあ……冒険者なら正攻法も調べてからやってほしかったなあ。リレイザーあるとはいえうちの子達もただじゃすまされないんだし」
 そうだなと適当に相づちを打ちながら、ずり落ちないように手を添える。自然と抱き締める形になったが、ここは大甲士に割り当てられた将校専用の天幕だから特に遠慮はしなかった。
「どうして勘違いするんだろうね」
「そうだな」
 溜め息交じりの一言に同意しながら、キーンは膝の上の身体に回した手にほんの少しだけ力を込める。
 本当はわかっている。きっとあの哀れな隊員はこいつの囀りに引っかかってしまったのだろう。人当たりが良くて、ちょっと意地悪で、あちらこちらにふらふらしている鳥が、時折擦り寄って自分だけに気まぐれに囁く囀りは、人によってはえらく効く。たとえ本人にそういう気がなくてもだ。あの若いルガディンも、この小柄で一見どこにでもいるミッドランダーにあっさりと傾いてしまったに違いない。
 横恋慕や執着はこいつが最も理解し得ない感情だ。最近はだんだん解ってきたものの、性根がどうしても地面に足をついていない。それを理解しないまま、若いルガディンは勝手に期待し、そして呆気なく飛び去られた。そしてあの凶行に及んだのだろう。
 そういう止まり木にもなれなかった人間を見るたび、キーンはこの青年の行く末が心配になる。だがそれと同時にじわじわと滲み出てくるこの優越感に近い感情は、なんとも病みつきになってしょうがない。
「……? キンちゃん、なに?」
「んー」
 知らず知らずのうちに力が籠もっていたらしい。気付いた相手に適当に誤魔化すと、もぞもぞと頭が動いて翠の視線がこちらを見上げてきた。
「甘えたくなっちゃった?」
「……んー」
「んーだけじゃわかんないよ」
「ん」
 思いっ切り抱き締めたところ、突然口を塞がれた彼は「わぷ」と妙な声を出した。そのまま藻掻きだしたがもともとの体力差を覆すことはできず、ジタバタするだけに留まる。
 だが別に何の理由もなくこうしているわけではない。実際離したくなかったのもあるが、キーンの鼓膜は情けなく藻掻く声とは別の音を捉えていた。
「――失礼いたします!」
「なんだ」
 まるでスイッチでも切ったかのように大人しくなった身体の代わりに返事をする。大急ぎでやって来たらしい若い下士官は、天幕の中に入るなり「ぁわ」という音を漏らしたが、なんとか三秒の間に立て直した。
「憲兵隊から大甲士どのへ伝達であります!」
「ご苦労、置いていけ。後で報せる」
「その」
「見て解らねえか? 大甲士はお疲れだ。下がれ」
「はっ、しっ、失礼致しました!」
 気配が飛び出していき、足音が大急ぎで遠ざかる。十分遠くなったところで抱きしめていた身体を離してやった。あんまりぎゅっとしすぎたせいだろうか、その表情は無だ。
「……キンちゃん」
「なんだ」
 だが、この無の表情はどこかで見たことがある。どこだっけな、いつだったっけ、いやそれにしてもこの嫌な予感は何だろう。
「目つむってて」
 何で今と思ったが、言われたとおりにしないとまずい気がする。
 ――そう大人しく目を閉じた次の瞬間、結構な勢いで頬をぶっ叩かれた。

三度の飯が好き

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