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幼児退行を諦めない エタバン後

 スウィフト・ライダーという人間はことごとく子供と相性が悪いらしい。実直、真面目、堅物を具現化したような彼は、無垢で無邪気で自由を体現する子供とは相反するもののようで、彼自身がよかれと思ってやったことでもたびたび機嫌を損ねては助けを求めることが幾度かあった。
 そして、出張での仕事を終え帰ってきたばかりのキーンに飛び込んできた今回の通信も、スウィフトの言葉を借りれば例に漏れず「やってしまった」らしい。
『頼む、どうしても嫌だと言っていて』
「頼まれなくても行くっつうの」
『助かる』
 いつになく弱気な上官の声に若干気を良くはしたものの、言われた内容は気にかかる。昨日の夜からご飯もいらないと言っているのはさすがに心配だ。飢え死にするようなことはないとは思うが、体調を崩されてはたまらない。
 出張の荷物を家に放り、お土産として買ってきたクガネのみかんと張り子の玩具だけ携えて飛んだ先は、幾度となく通ったフロンデール薬学院だ。受付に軽く会釈をし、ずんずん奥へと進んでいく。
 街の喧噪や待合室の話し声からも遠く離れた奥の一室、関係者以外立ち入り禁止の札がかけられた扉の前に立つ。そして一息ついたのち、静かにノックした。
「おお来てくれたか」
 間髪入れずに開いた扉の向こう側に、すっかり憔悴したスウィフトの顔が現れる。その表情に思わず笑いそうになってしまったものの、本人にとってどうしようもない得手不得手なのだと言い聞かせて我慢し、「そりゃ来るよ」と答えた。
「様子は?」
「変わらん」
「わかった」
 後は任せろと入れ替わりで部屋に入る。
 ぬいぐるみやままごと用の玩具、子供向けの本がさまざまな場所に散っている病室のベッドの上で、こんもりと丸くなっている山が一つ。
「おう。来たぞ」
 声をかけた途端、ぴく、とその山が震えた。そしてもぞもぞと動いたかと思うと、控えめな動作で布団から緑色の頭が出てきて、ややあってから両目が露わになる。キーンに視線を合わせたその両目は一瞬だけ嬉しそうな色を浮かべたが、すぐにまたしゅんと暗くなった。
「あ? おかえりはどうした」
 それに気付かないふりをしながら、キーンはずんずんと部屋の奥へ進んでいく。癇癪を起こしたのかそれともスウィフトに投げつけたのか、床に転がるお気に入りの縫いぐるみを拾い上げて埃をはたきつつベッド脇の椅子にどっかりと腰掛けたら、またもぞもぞと布団の山が動いた。
「…………おかえり」
「おう、ただいま。で、飯食ってねえんだって?」
 もごもごと絞り出された一言に応えながら、取り繕わずにそのまま聞いた。だが責めている様子は決して見せない。萎縮してしまうからだ。
「腹減ってねえのか」
「……へってない」
 だが、その返事にかぶせるようにしてぐるるるると腹の虫の声が聞こえた。んん、と小さな声を出して恥ずかしそうに動く。
「減ってんじゃねえか。クガネのみかん好きだろ、ほら剥いてやるから」
 さりさりと薄い皮を剥いていく。白いものも全部綺麗に取っ払って、ひとかけら摘まみ差し出してやるが、布の塊は強情だった。
「いらない」
「あ? 食っちまうぞ」
「いいよ」
「なあ、テメェなにそんな拗ねてんだ? 仕事で留守にしちまったのは謝るが、すぐ戻ってきたろ」
 よかったらオレに教えてくれねえかと飽くまで優しく尋ねると、引っ込んでいた頭をほんの少しだけ出してくれた。
「……おこらない?」
「怒んねえよ」
 翠の目が下を向く。しばらく迷っているようだったが、やがてもごもごと口元が動いた。
「キンちゃん、けっこんしてる?」
「お? おお、まあな」
 翠の目はキーンの左手に向いていた。そこには、数ヶ月前にはめたばかりではあるが、不思議としっくりきている久遠の指輪がある。突然の話に動揺しながら先を待っていると、彼はまた小さく零した。
「……だいじなひとのところ、帰っちゃう……?」
 布団に染みこんで消えそうなほどかすかな声に、キーンはようやく目の前の小さな生き物が何を考えているのか思い当たった。
 彼は——ヒラキは、大人になってからのことを何もかも忘れて幼い子供に戻っている。
 きっかけはいつもの怪我だった。いつもよりも当たり所が悪かっただけの怪我だったのに、目を覚ました彼はキーンのことも自分が為してきたことも全て忘れて、無垢で無邪気で自由な子供になっていた。自分は大きくなったら親の店を継ぐのだと思い、海なんて見たことは一度もなく、召喚のことも何一つ解らない。彼の人生を捻じ曲げた忌まわしい記憶も、楽しげに話す家族がもう居ないこともすっかり忘れ去っている。今の彼は、「病気を治すところに知らない人たちといる」「病気だから家族と会えない」程度の認識しかない。
 その彼は、ぎゅっと布団を握り締めながらぽそぽそと続ける。
「だいじなひとと、いっしょにいることだって、母さんから聞いた」
「……」
「キンちゃんも、その人のところにもどる?」
「……お前と一緒にいるよ」
 その大事な人が自分自身であることすら忘れている彼に、直接伝えることはしない。何があるかわからないから、様子を見ながら負担をかけない程度に治療すると決めているからだ。だから今は、何もかもを我慢して不安げに揺れる瞳の主を優しく撫でることしかしない。
「心配すんな」
「ぼくのせい?」
「それは違ぇよ。お前のせいじゃねえし、どこにも行かねえ。安心しろ」
「…………あの、行きたくなったら、いってね。ぼくがまんする」
「んな顔で言われても説得力ねえぞ。とにかく出てきてみかん食え、剥いちまった」
 のそのそと出てきた小さくて大きな子供は、今度は素直に橙色の半月を受け取った。かすかに腫れている目元は見えなかったふりをしながらさらにおかわりを渡してやる。
「後でメシも一緒に食おうな」
「うん」
 食べる、と頷いた瞳はもういつもの明るい笑顔だ。ひとまずは安心と胸をなで下ろしながら、キーンもまた一房口に放り込む。
 旬を迎える直前の果実は、わずかに酸っぱい味がした。

三度の飯が好き

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