🌖

帝国if まだくっついてない

 抜けるような青い空だ。雲がほとんどない晴れ間は随分久しぶりかもしれない。ごくごく薄い絹のような雲があるだけの空を、海鳥たちが渡っていく。
 これを見上げているのが庭先のベンチだったらどんなにかよかっただろう。ほどよい陽気と海風の中まどろむのはきっと心地が良いに違いない。だが、今自分が背中を預けているのは硬い石の床で、なんなら安心できる家の庭先でもなんでもない、街中の階段の下だった。
(…………いたい)
 じわじわと強くなっていく痛みで声が出せない。海風も周りの声もどこか遠くから聞こえてくるようだった。
 昔はこんな痛みなんて慣れっこだったのに、ずいぶん緩んでしまったものだ。階段から突き落とされた程度で身動きが取れなくなることがあるなんて思ってもみなかった。何かあるか解らないから、と念のために持ってきていた守護の宝珠はちゃんと動いてくれたようではあるが、それでも痛いし、動けない。またちゃんと身体を鍛えないと、これじゃあキンバリーの仕事についていくと言っても止められるのが目に見えている。
(キンちゃん、——そうだ、キンちゃん)
 はたと思い出した。突き飛ばされる瞬間、彼女は——自分を突然突き飛ばしてきた、やわらかな木漏れ日のような金髪の女性は、「あんたなんかキンバリーさんにふさわしくない」と言っていた。なにか思い詰めた風であったから、キンバリーが何かされていないか心配だ。強い彼のことだからきっと大丈夫だとは思うが、それでも気にかかる。
 ——ふさわしくないなんてわかっているのだ。あんなにも強くて優しくて綺麗な夜に、傷だらけで片目もない自分はそぐわないなんて前々から知っている。もっと相応しい人間がいるということもだ。
 だが、知っているけれども、離れたくなかったから、優しさに甘えて側にいた。そのツケがとうとう回ってきてしまったのかもしれない。
(…………)
 酸素が足りない。明るい空がだんだんと昏くなる。自分を覗き込んでいたひとたちの影もぼんやりとしてきた。きっと自分だけに夜が来るのだ。優しくも暖かくもない、冷たいだけの夜が。
(……きんちゃん)
 視界に月が昇ったのを最後に、意識が夜へと沈んでいった。

***

 は、と吐息が漏れた。慌てて視線を上げると、それまで閉じられていた瞼がゆっくりと上がった。
「……!! おい、わかるか」
 握りしめた手により力を込める。すると、ゆっくりだが握り返す感触があった。どこにいるのかわかっていないのだろう、緑の瞳は少しぼんやりとしていたが、やがてキンバリーに焦点を結ぶ。
「…………キンちゃん?」
「ああ、そうだ、大丈夫か」
「……だいじょうぶ……だいじょうぶ? キンちゃんは?」
「なんでオレに言うんだよ。痛いところねえか」
 ぎゅっと掌を包む。いたいとこ、と繰り返した彼は、ややあってからにへらと笑った。
「て」
「あ?」
「にぎってる」
「あ、あっ、ごめん、悪い」
 慌てて手を離し優しく包み込む。手の甲を指の腹で撫でてやると、目許がまた緩んだのが見えた。その柔らかい表情が、すぐ上に巻かれた包帯のせいで逆に痛々しい。
「覚えてるか」
「なにを?」
「階段から落ちたんだ。押されて」
 極力言葉を選んで伝えると、明るかった緑の瞳が途端に翳った。
「……夢じゃないのか」
「オレのせいだ。悪かった。一人にしなきゃ良かった」
 人通りが多いところだし、本人もこの街に慣れてきたから大丈夫だと思っていた。だが甘かった。人だかりの中、頭から流した血で白い石畳を赤く染める彼の姿を見たとき、全身の血の気が引く音が聞こえたのを覚えている。幸い怪我は大したことがなくすぐに塞がり、一日様子見で入院ですねといわれた程度だったが、白と赤のコントラストがあの冬の森を思い起こさせるようで、どうしても厭な感覚が拭えなかった。
「ちゃんとそばにいりゃよかった。ごめん」
「キンちゃんが謝るようなことじゃないよ」
「けど」
 イエロージャケットに捕らえられた女は「あなたのため」と喚いていた。意味がわからなかったが、自分が何かしてしまったせいでヒラキに危害が加えられたのだ。となると自分のせいに他ならない。
 だが目の前でこちらをじっと見ている瞳は言った。
「キンちゃんは悪くない。だからそんな顔しない」
「でも」
「でももなにもなし」
「……ゥ」
 強情だ。こいつは何故か時折頑固になる。そして、そういうときは絶対に折れない。
「悪いのは俺だから」
 だが、次に続けられた言葉は到底許容しがたい言葉だった。
「は? なんでそうなる」
「俺がキンちゃんにふさわしくないのにずっと甘えてたから」
「何の話だ」
「あの人が言ってた。俺はキンちゃんに相応しくないって。確かによく考えてみたらそうだよね、身体なんて傷ばっかりだし、目も片っぽないし、顔も普通だし。力も弱くなっちゃった」
 あの人がそう言うのも無理はないよね、と彼は笑う。あの人というのはきっとイエロージャケットに捕縛された女だろう。どういう理屈でそうなったのかまるでわからない、わからないが、無性に腹が立った。
「——テメェはオレよりもあの女の言うことを信じるのか」
「ぇあ」
 喉から出た声は自分でも意外なほどに低かった。諦めたように笑っていたヒラキの顔が、驚きと綯い交ぜになったそれに変わる。怖がらせてしまったと胸が痛んだが、ここは譲れない。
「他人からどう見えようが関係ねえだろ。オレはテメェに一緒にいてほしい、そこに相応しいもクソもねえよ。いやテメェ以外に相応しい奴なんかいねえ」
「でも」
「でももなにもねえバカ。オレがそう言ってんだ」
 ぎゅ、と彼の顔のパーツが全部中央に寄った。泣き出しそうなのを堪えている子供のような顔だったが、やがてふにゃ、と崩れる。
「……キンちゃん」
「ん」
「ごめんね」
「んで謝るんだよ」
「ありがと」
「礼も要らねえよ。とにかく良かった」
 頬に手を添え、親指で優しく頬を撫ぜる。
 聞きつけた妹が病室に飛び込んでくるまで、キンバリーはずっとそうしていた。

三度の飯が好き

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