私は好きにする 君たちも好きにしろ
とおもって好きにした結果がこれだった
殻の中にいる時から鳴きだすとされる。
その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられ、「妙音鳥」、「好声鳥」、「逸音鳥」、「妙声鳥」とも意訳される。
——wikipedia
両手に伝わる硬い感触。骨とも肉とも違うそれに確信し、体重をかけてさらに踏み込む。ぼろぼろの手が刃を掴んで阻もうとしてきたが、深々と突き刺さった切っ先を押し戻すほどの力はなかったらしい。ばきん、と何かが砕ける音と同時に引き抜くと、それまで立っていた身体は糸を切られた人形のように力が抜けた。
「おい!!」
散った羽が雪のように降り注ぐ中、膝で一度止まった身体を、得物を放り捨てて受け止める。噴き出した血が頬に服にかかったが気にしない。気にする余裕はない。寝かせつつ先程自分が穿った傷口を押さえつけようとし、はたと気付いて上着を脱いだ。そしてどくどくと流れ出る血を止めようと押しつける。
白い布地がすぐに赤く染まっていくが、一向に落ち着く様子はない。焦りが募り、震える手を叱咤しながら、それでも必死で力を込めていたら、ふとすぐそばの口が微かに息を吐き出した。
「…………あ、ぁ——あ、あは、……きんちゃん? きんちゃん、だあ」
「しゃべんな、うるせえ」
それまでただ意味のない囀りを——いや効果はあったのだ、聴いた人間どもを片っ端から虜にするという厄介な効果が——撒き散らすだけだった口が、ようやく象った自分の名前に一瞬だけ安堵を感じたが、キーンはすぐに撥ねのける。喋る度に血の勢いが少し増したからだ。
だが彼の口は止まらなかった。
「き、んちゃん」
「うるせえ」
「ごめ、ごめんね、……ごはん、ごめん」
「だからうるせえ、気にしてねえ、テメェの上司なんていつもそうだろ」
止まらない。止まらない。底を尽きかけたエーテルをかき集めて治癒を施しても追いつかない。すっからかんになるまでやってやるつもりだが、それでも手のひらの下から流れ出ていく命は止まらない。だというのに、この男はずっと、一昨日仕事でフイになった食事のことを謝ってくる。それが唯一の心残りだと言わんばかりに。
「せっかく、せ、せき、とった……のにね……ごめんね……」
「気にしてねえから黙ってろ!! ——治療師来い!! 早く!!」
「ん、…………んん、たいへん、きょうも、……たいへんだった、でしょ」
溺れるような音とともに口元が真っ赤になった。喋るのに邪魔な血を吐き出しながら、彼は言葉を紡いでいた。
「……あ、ぁー……やだなあ……ごめん、きんちゃん、」
「んだよ! ——治療師!! ビビってんじゃねえ!! 来い!!」
「あのね…………くらい、くらいの……こわい、から、ぎゅって、して」
「ッ、……クソ」
吐き出された言葉にはたと顔を見て舌打ちした。目の焦点が合っていない。緑の瞳は声を頼りにこちらを見ているだけだ。
ダメだ、ダメなんだと頭の中で叫ぶ声がする。これ以上こぼれていくのはダメだ。でも、キーンにはもう何も堰き止められない。
「きん、……きーん……こわ、くらい、ごめん……」
「なに、なにってんだこの、クソッ!!」
抑えつけていた手をいったん離し、極彩色の羽が散り焼け焦げた地面に寝かせていた身体を抱き上げる。そしておもいっきり力を込めた。
「は」
安堵の音が漏れる。金魚のように震えていた唇の動きが止まる。強張りが解け、腕にかかる重みが増し、そして眠りに落ちるように瞼が下りる。
「ダメだ、おい、ダメだ、馬鹿」
揺さぶっても、何をしても、返事はなかった。
突如ラノシアに現れ、焔と愛を振り撒いた迦陵頻伽は呆気なく地に墜ちたのだと理解した瞬間——
***
悪い夢だと思った。
「……ぁー」
きっと調子に乗って飲み過ぎたのだろう、頭が重いし身体も怠い。たぶん顔だってひどい顔をしているに違いない。喉も声を出すたびに痛む。こうなるまで飲んだのは久し振りだ。記憶を飛ばしたのはもしかしたら初めてかもしれない。仕事で疲れきっていたのだろう、突然あんな任務を振ってくるスウィフトもスウィフト——
「ッ!!」
「起きたようだな」
怠さも何もかも吹き飛ばして跳ね起きた途端、聞き慣れた声がキーンの耳に飛び込んできた。
「相変わらずの貴殿の復帰力には脱帽する」
「なんっ、テメェ、スウィフト」
「一昨日の討滅戦はご苦労だった。……む、一昨日と言ってわかるか? いやわかっているなその顔だと」
「スウィフト!!」
「怒鳴るな、薬学院だぞ。周りの迷惑になる」
「クソッタレが——」
まったくもっていつも通りのスウィフトに、飛び出しかけた大声を喉で殺す。
ではあれは悪い夢などではなかったのだ。黒渦団の召喚士が蛮神に転じたという報を受けて討滅しに行ったあれは間違いなく現実で、最後にその翼をへし折ったのもまさしく現実なのだろう。この残念なことに見慣れつつある病室と久しぶりの病衣の感覚が語っている。それなのにどうしてこいつは、友を殺せと命じたこいつは、いつもどおりの顔をしているのか。
「貴殿には負担をかけてしまったな。しばらくの間は特別休暇だ、自由に過ごすといい」
「……休暇、休暇だ?」
「相応の働きをしてくれた隊員にはしかるべき報酬が与えられて当然だ」
「テメェ本気で言ってんのか」
友人を殺した人間に報酬を出すのか、それも命じた人間が言うのか、あいつのことも悼まずに。蛮神になるまで身を削ってきた人間に対して一言もなく。
「その前に」
だが、噛みかかる直前、スウィフトはそれまで腰掛けていた椅子から立ち上がった。
「貴殿には話しておかねばならんな」
「何をだよ」
「いいからついてこい」
「……病人」
「貴殿ならもう歩けるだろう?」
ケッ、と吐き捨ててベッドから下りる。用意されていたサンダルをつっかけると、スウィフトは「それみろ」と言わんばかりの一瞥を寄越した後、すたすたと歩き出した。
「まず言っておくが、先の任務は極秘だ」
石造りの床を歩きながら、スウィフトは言った。
「そのため貴殿らは他の任務で負傷、薬学院に搬送され入院したということになっている」
そりゃそうだろうよ、という苦言を口の中でかみつぶす。同盟軍の将校が蛮神に転じたのだ、そんなことが周りに知れ渡ったら士気や威信に関わるというのは嫌でも解る。
だがふと頭に引っかかった。
「……待ておい、オレらってなんだ」
「そのため、今後この任務についてはこちらから提示した者以外には明かさないように」
「おい!!」
「薬学院だから静かにしろというに……ああ、ここだ。さほど離れていないな」
ある扉の前で立ち止まったスウィフトは、ノッカーで軽く扉を叩く。
「スウィフトだ。入るぞ」
答えはないがそのままドアノブをひねって押し開けた。
——さ、と吹き込む風が頬を撫でた。砂の都特有のぎらついた光が、ゆるやかにはためく薄い紗のカーテンで和らげられ、部屋の中のものに降り注いでいる。その中でぼんやりと、積まれたクッションに背中をあずけてこちらを向いている影がひとつ、あった。
「貴殿よりも早く目を覚ましたのだ。まだ喉と目が戻っていないが、それもしばらくすれば快癒するだろう」
「うるせんだよ!」
久しぶりに走っただろう足がもつれそうになる。無様な格好だろうが気にしない。キーンはただ只管に窓際の寝台に近づいて、最後は転ぶようにシーツに手をついた。
「お前、お前、いきてんのか」
絞り出した声を聞き、きょろきょろと彷徨っていた顔がキーンの方を向いた。両目が包帯で覆われている。さきほどスウィフトが目がどうたらとか言っていた気がするから、きっと声を頼りにしているのだろう。すん、と鼻が動いて、今はすっかり血が拭われて綺麗になった口に笑みが上ったのが見えた。
「——言っておくが」
戸口で立ったままのスウィフトが再び口を開いた。
「召喚士の体内に取り込みつつも蛮神のエーテルを宝珠に集めて封じ込め、他人に破壊させるという作戦を提案したのは彼だ。視察後悠長なことも言っていられなくなったのでな、同意の下で——」
「だからうるせえんだよ黙ってろ!」
「まったく……では休暇こちらで処理しておく。ゆっくり休みたまえ」
気配が遠のき、扉が閉まる。遠ざかる足音と溜め息が鼓膜に届いたが気を払うことはしなかった。
「馬鹿野郎がよ」
絞り出した声に、にへ、とまた口元が笑う。いつものアレだ、申し訳なさそうな曖昧な笑み。虚ろの愛を囀ることも、空気を求めてわななくこともない、時折どうしようもなく腹が立つ笑顔。
「テメェマジ、ぶっとばすからな」
へにゃっとくずれた唇が、ごめんね、という更に腹が立つ言葉を象ったのもいつも通り。
何もかもが日常に戻りつつあることを実感したその瞬間、キーンはそこで初めて泣いた。