トラウマスイッチ おさんぽのあと
車椅子を持ち帰ったときには、既に弟はするべき事を済ませてくれていた。
「いつものじゃ落ち着けなかったから、少し混ぜた。黄色い箱に入ってるやつだよな」
「うん、合ってるよ。ありがとう」
きっと部屋に入る前から足音で察していたのだろう、振り返りもせずに言うベッド脇の濃紺の髪に答えた。
部屋の扉を開けた途端に漂ってくる香の匂いが全てを語ってくれている。キーンが言っているのは鎮静の香だけではどうしようもなかった時に混ぜていたハーブのことだ。用法は軽く伝えてはいたものの、咄嗟にここまで的確に使えるとは、前に病状が悪化してしまったときに使っていたのをしっかりと覚えていたらしい。粗野な言動で勘違いされがちだが、この子は本当によく見ている。
「今日は泊まってく。にゃんこのご飯はレジーに伝えてある」
「わかった」
「……無理させた」
ぼそ、と最後に落ちた言葉はどんよりと重たかった。
「あんな怖がってたのに」
「提案したのは僕だ」
もう一つ椅子を持ってくると、キーンの隣に置いて腰掛ける。
組んだ手に額を預け、うつむいているその表情はよく見えない。だが、どんな顔をしているのかはすぐに解る。必要以上の負担をかけてしまったことを悔いているのだろう。
「キーンが気に病むことじゃない。それに、キーンがいてくれたから彼の負担が最小限で済んだんだ」
「……ん」
丸まった背中を撫でてやると素直な返事があった。何か言いたいことはあるが、それでも自分の中で納得しようとしている、そんな声だ。自分で噛み砕こうとしているのがよく伝わってきたから、カームはおもむろに話を逸らしていく。
「彼が見ているのが幻だっていうこともわかったし。これからは——」
「違う」
だが、次の瞬間返ってきたのは先程とは打って変わってはっきりした言葉だった。
「違う?」
「こいつが見てたとこ、義兄さんも見ただろ」
「路地のちょっと奥の方だね。不滅隊の人にもらった人相書きの人はいなかった」
少し前の市場を思い返す。カームも彼が凝視していたところを見たし、その後に急いで確認しにも行ったのだが、その場所には誰もいなかった。だが、顔を上げてこちらを見ているキーンの目には強い光が灯っている。
「誰かがいる音が聞こえた。どういう仕組みかはしらねえが、こいつが見てた場所に何かいたのは確実だ。……オレがもうちょっと、キャスターやってりゃ視えたかもしんねえけど」
確かなんだね、などという確認は不要だろう。黒影の民の聴覚はずば抜けているし、今までその聴力に裏切られたことは一度もない。何よりキーンの金色の目は確信に満ちていた。
「……姿を隠している何かがいた。彼はそれを見ていたんだね」
「あの不滅隊の奴にもう一回会ってみる。落ち着いたら」
「僕はあの場所を少し探してみよう」
カームはそれまで自分の中で練っていた薬の内容を一度まっさらにする。何か別の糸口が見つかるかもしれない。それも、今まで思いも寄らなかった何かが。
「……んん」
じゃあ今日はキーンに任せてもいいかな、ああいいよなどと話をしてたら、ベッドの中で眠っていた身体が小さな声を漏らした。寝言かと思ったが、とろとろと瞼が持ち上がる。
「ああおはよう。ごめんね、起こしちゃったね」
「具合悪いとこねえか? 大丈夫か?」
ぼんやりとした緑色が、カームとキーンの間を彷徨う。怯えはない。息も荒くない。落ち着いているようだ。
彼はしばらくぼうっとしていた後、やがてゆっくりと口を開く。
「キンちゃん、かみ、とどいた?」
「まだだった」
キーンは一瞬詰まった。だがすぐに柔らかい表情を浮かべる。
「今日はもう来ねえと思うから、ゆっくり寝とけ」
「んー……」
ぐずるような声を漏らした後、今度はその瞳がカームを捉えた。
「……せんせい、かみ、きた?」
「まだだよ。大丈夫、来たら教えてあげるからね」
いつもより意識が曖昧だ。より深く過去と夢うつつの狭間を漂っている。ハーブを使ったこともあるだろうが、きっと先程の外でのことが尾を引いているのだろう。
カームは、汗が滲んでしっとりとした額に手を当てる。
「ゆっくり寝てていいんだよ。紙は起きたらまた確認しようね」
「…………」
わかった、という言葉を音にする体力は残っていなかったらしい。かすかに口元を動かしたあと、緑の目は再び瞼に覆われる。数秒もしないうちに深い寝息が聞こえてきたのを見て、額に置いていた手をそっとのけた。
「……忙しくなるね」
ぽつりと呟いた一言に、昼間の月がぱちりと瞬いた。