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帝国if 牧羊犬みたいなお医者さんと

 技術の進歩は素晴らしい。少し前まで自分の名前すら言えず、ただ椅子に腰掛けてぼんやりとした視線を漂わせているだけだった患者が、今は手すりに掴まりながらも自分の足で立って出迎えができるようになった。体力ばっかりは昔からの方法で地道につけていくしかないものの、それも一緒に暮らしている家族のおかげで順調だ。あばら骨が浮いていた身体もだんだんと健康的な肉付きを取り戻しつつあるし、喋って息切れを起こすことも、妙な呼吸音が混じっていることもない。
「すごく順調だ。よく頑張ってるね」
 もういいよというカームの言葉に、彼は素直に捲っていた服を下ろした。その動きは淀みがなくスムーズだ。彼の膝の上にちょこんと座っているポークシーも、「特にやることはない」と言わんばかりにくつろいでいる。
「次からはこの子も連れてこなくて良さそうだ。ゆっくり身体の調子を整えていこうね」
「ありがとうございます」
「そんなかしこまったお礼なんていいんだよ、僕はやりたいことをしているだけだからね。それにお返しは十分もらっているし」
 今度はじっくり栄養と力をつけていこう、と持ってきていた鞄を開ける。ここまで順調なら、今まで処方していた薬ではなく、栄養を行き渡らせるようなものがいいだろう。滋養によいハーブをいくつか取り出し、彼の家族が用意してくれている薬箱に入れ、更に種類とお茶にする方法を便箋に書き留めていく。
 だがその途中で、彼の膝の子豚が小さく鳴いた。今まで聞いたことがない声におやと視線を上げると、くつろいでいたポークシーが彼の方を向いてじっと見つめている。
「……何か心配事でもあるのかい」
「え?」
「その子はとびきり鼻が良い子でね。患者の子達に何かあったらすぐに察知するんだ。特にその子はずっと君の治療のお供だったから、つまり何でもお見通しってことだよ」
「……」
 彼は黙った。言うべきか言うまいか迷っている様子からして、何かあるのは間違いないらしい。
「僕で良かったら話を聞くよ」
 家族の二人は——一緒に暮らしている兄妹は、肌を晒すことになるからと気を遣って席を外してくれている。この彼の寝室には、自分と彼の二人しかいない。
 それでもしばらく迷っていた彼だったが、膝の子豚に促されるように鳴かれてようやく、ぽそぽそと口を開いた。
「ここに、いるのが、こわくて」
「ここに? このお家にいるのがかい?」
 彼は小さく頷いた。
 それは随分意外な言葉だった。ここ最近の付き合いとはいえ、彼と兄妹の仲の良さは今までの診療でとてもよくわかった。血が繋がっていないにもかかわらず、互いを思いやり大切にしていることがよく伝わってくる。彼が自発的に動けるようになったときなど兄の方は人目も気にせず泣いていたし、妹も二人の手を握りながら「よかったねえ、よかったねえ」と本心からの言葉を繰り返していた。もちろん、その関係性は今も変わっていないように——むしろもっと仲が良くなっているようにすら見える。
 それなのに、怖いというのはどういうことなのだろう。
「詳しく聞いていいかい」
「……あの、俺、何もできてないんです」
 伏せられた片目が、長く伸びた前髪に隠れる。
「まともに歩けないし、食べさせてもらってるばっかりでお金も稼げないし、トイレもたまにしんどいときがあって連れて行ってもらうこともあるし。その……えっと、言いづらいんですが」
「うん」
「キンちゃん、キンバリーくん、と、俺、昔そういう関係だったんですけど……そういうことをするわけでもないから、本当に役に立ってない。迷惑かけてばっかりなのに、キンバリーくんもエトワールちゃんも、俺の世話してくれる。迷惑ばっかりかけてるのに、何も返せないのに」
 だから怖いんです、と彼は呟くように言った。
 なるほどこれは根が深い。他人が無理に分け入ったらきっとこじれてしまうだろう。
「そうか。話してくれてありがとうね」
「……すいません、こんな話」
「いや、いいんだよ。そういう不安も、全部一つ一つ解決していこう。……確認なんだけど、君はあの二人と一緒に居たいとは思ってるんだよね」
「あ、う、はい……」
「それなら、今のはすぐ解決しそうだよ」
 え、と緑の片目がカームを捉える。
 その瞬間、扉のすぐ外でもごもごしていた気配が一気になだれ込んできた。
「ごめんごめんごめんごめんね!! 本当にごめんなさい!! あのねごめんねうちのバカ兄が気付かないでほんっとにごめん!!」
「バカ兄ってなんだコラテメェだって気付いてなかったろうが!!」
「わ、わ、え」
 一瞬後、彼は長身の女性に飛びつかれて目を白黒させていた。潰されないように慌てて飛んできたポークシーを受け止めながら、カームはまず謝ることにした。
「扉のすぐ外にね、いたんだよ。二人とも君のことを心配している様子だったから止めなかったんだ。黙っていてごめんね」
「ぁ、……えっ、全部、きいてた……?」
「聞いた!! ごめん!! 不安にさせちゃった!!」
 金色の目にいっぱい涙を溜めた妹が、ぎゅうぎゅうと彼の身体を抱きしめながら半ば叫ぶように言った。
「私はね、全然迷惑とか思ってないの!! 大切な人と一緒にいたいから一緒にいるの!! だからこれからもずっと一緒に居てお願い!! ——ほら兄さんも何か言いなさいよ早く!!」
「うるせえ言われなくても言うって!!」
 兄の方は彼のすぐそばに膝をつくと、血色の良くなってきた手を取り、優しく握る。
「不安にさせちまって悪かった。オレもこいつと同じで、迷惑だなんて思ってねえよ。妹とお前と一緒の未来が欲しかったから迎えに来たんだ。どんなお前でも一緒にいて笑っててくれりゃそれでいんだよ」
「ほ、ぁ、う」
「だから一緒にいてくれ」
 耳まで真っ赤になった彼は、ただぱくぱくと口を開け閉めしていたが、やがてきゅっと噤んでゆっくりと頷いた。いっぱいいっぱいになっているが嘘ではないらしいということは、カームの手の中で大人しくしているポークシーの様子からはっきりとわかった。
「うわあああんよかったぁ!!」
 すりすりすりすり!! とものすごい勢いで頭を擦り付ける妹と、心底ほっとした顔をしている兄を見て、カームの頬が思わず緩む。
「ひとまず解決かな?」
 ぽそりと零れた一言に、掌にすっかり落ち着いてしまった子豚の可愛らしい声が応えた。

三度の飯が好き

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