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小甲佐+自機
船を一人で沈めてきたけど沈みそうになってる自機とほくほくの上司

 まだ冒険者なんて頭の片隅にもなかった頃、海は遙か遠かった。
 勿論出入りの業者から話は聞くし、街角の詩人の歌や本で現される誌で触れることは多々あった。だがそれは、人から聞いたり文字で読んだりするだけの話であって、何かない限り自分の目で見るような景色ではない景色でしかなかった。今後も大金持ちにならない限り、目にすることなんてないと思っていた。
 それがどういうわけか、自分はいま海にいて、その波に揺られている。
(……しょっぱい、くさい、つめたい)
 水に浮く部分は限られている、という話を思い出して、波間になんとか鼻と口を出す。川や湖に比べたら浮きやすいとはいえ、服が水を吸って泳ぎづらいし、なにより泳ぐ体力がない。そこかしこにできた切り傷やら銃創やらも痛くて今すぐ泣き出したいぐらいだ。
 ゆらゆらと揺られながら、視界いっぱいに広がる青い空と、海風に流されつつある煙をぼんやりと眺める。
 このままどこまでいくのだろうか、もしかすると東方まで流されたりするんだろうか。その前にサメやら何やらに食べられてしまうのだろうか。それなりに気に入っている黒渦団の制服も、色々頑張って作り上げた魔導書も、友人に作ってもらったピアスも何もかも、自分の骨と一緒に海の底に沈むのは少し勿体ない気もするが、この大きな海に呑まれて一つになるのなら、それはそれでいいかもしれない——そう思わせてくれるのは海だからだろう。
 眠気が増してきた。口の中に海水が入り込んでくる。
 まさか砂漠の都の自分が海で死ぬなんて思いも寄らなかった。いくつか心残りはあるけれども、それはきっと周りがなんとかしてくれるに違いない。
 何もかもを手放して青に呑まれる。
 だがその瞬間、ぬっと視界に何かが割り込んできたかと思うと、ぐん、と身体が持ち上げられた。先程の浮遊感とは打って変わって、背中や頬に硬い床が当たる。
「よかった」
 げっげっと噎せる合間に聞こえてきたのはやたらと覚えのある声だった。視線を声の方向に向けると、ぼやける視界の中に黒と赤が滲む。
「意識はあるね? 毛布」
「はっ」
 短いやりとりの直後、その黒と赤から何かが伸びてくる。咄嗟に振り払おうとして容易く取られてしまったが、そのまま抱き起こされて柔らかい何かに包まれた。
「よし、よーしよし、落ち着きなさい」
「ぁ、あ……?」
「間に合って良かった、ほんとうに良かった」
 包み込んできた何かはそんなことを言いながら、ごしごしと背中や二の腕をさすってくる。
 どうやら自分は助かったらしい。
 そう理解した直後、目の前のぼんやりとした黒と赤が、唐突に輪郭を取り戻した。
「しょ、……こうさ、どの」
「うん、うん、よしよし、よくやったね」
 黒と赤は——自分をこの無茶な作戦に突っ込んだ上司は、まるで自身の身体で暖めようとするかのようにこちらを抱えているようだった。上等そうな制服が汚れるのも構わずに、額を擦り付けんばかりの勢いで抱き締めてくるその腕に、逆らうような気力は既になく、ただされるがままにその胸板に頭を預ける。
「君のおかげで何もかもうまくいくよ、ほんとうによくやった。君は自慢の部下だ」
「……しょう、こ、どの」
「いい、いいよ、無理しないでいいから、君は私の顔だけ見ていなさい」
 頬に暖かいものが触れた。すりすりと撫でられる心地よさに思わず目をつむりそうになるが、言いつけの通りに少甲佐を見上げる。
「良い子だ」
 おそろしく優しい双眸に、父か祖父のような愛情に満ちた穏やかな声。音の中に滲むのは歓喜と、そして少しばかりの安堵。
 ——基本荒くればかりの海賊上がりの中で、この男だけは異彩を放っている。人には心があるということを正しく理解し、息をするように転がしてくる。海を舞台とするならば、この男はきっと一流の役者だろう。
(こわいひと)
 そんな人間の下で、辞めも転属もせず働き続けている自分も自分だ。いつ転ぶかわかったものではないというのに、毒気に中てられまいとして足掻いているさまは、この男にとってはきっと面白い見世物に違いない。
(ほんと、こわいひとだ……)
 頭上を行き交う海鳥の声に混じる盗賊鴎の囁きを聞きながら、今度こそ意識を手放した。

三度の飯が好き

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