壁と背中と伊達眼鏡

これのつづき 
最近読んだものに影響されます なろう系っていうんですけど

 まただ。またこうだ。またこの光景を見ている。
 ぼやけた視界の中で喉を灼きながら、浅い呼吸を繰り返す。もうだいぶ前に持っていられなくなった魔道書は足元に落としたままだ。自分の血で腕に仕込んだ即席の魔紋が熱を持っている。へたり込むにはまだ早いが、足はもう一歩も前に進まない。
 そしてただ立っているだけの自分を追い越していくのはいくつもの背中だった。大きい背中、小さい背中、様々な種族の冒険者達の背中。平々凡々な自分とは一線を画す強くて大きな背中たちを、もう何もできなくなりつつある自分はただこうして見送ることしかできない。
 もう少しだけ自分のエーテルが多ければ。あとちょっとだけ体力があれば。空虚な仮定が心の中に浮かんでは消えていく。しょうがないのだ、自分はただの商人で、小さい頃から訓練を受けているわけでも、雄大な大地を旅する遊牧民の出でも、各地を渡り歩く傭兵でもない。望んでも手に入らない分不相応だというのは重々理解している。その割には生き延びているし、贅沢な悩みだというのも。それでも、あんなに輝かしい背中を見せつけられてしまっては、本に挟んでそれっきりの羨望や憧れなんて気持ちが頭をもたげてきてしまう。
 ――越える力を持っているからとはいえ、何にも限界はあるのだ。
 ある程度の習熟度に達した時点で見えてくる壁。それは今までの人生の中で何度も目にしてきて、そして目にした時点で踵を返してきたものだった。売上高、顧客層、店構えに従業員、知名度に銀行の信用。冒険者になった今は、その壁は同じ冒険者の背中だった。
 めまぐるしい命のやりとりの中で常に最適の一撃を選び取る攻め手。どんな大きな怪我であっても即座に治療し立て直す癒やし手。強大な敵を目の前にしても、たった一人で受けきる盾役。そして――自分ができなかったことを、生来のエーテル量でやすやすとこなす一流の魔術師たち。
 霞んだ視界でもわかる。肌に伝わるエーテルの流れでよく視える。自分には到底たどり着けない境地がそこにある。
 でも、足がもう動いてくれない。ただぼろぼろの案山子のようにかろうじて立っていることしかできない。見ることすら叶わず立っているだけだ。
(……情けない)
 錆の味が混じる呼吸を繰り返す。倒れ込みたいがその力もないし、何やら眼前で不穏に沸いている巨大な塊を避けることもできない。後続のことを考えての奮発とはいえ、使い切ったらここまで動けなくなるとは思いも寄らなかった。やり合っている気配がそれぞれ各々で固まる気配がする。自分の前にはもうなにもないから、きっと次の一発で吹っ飛ぶのだろう。むしろそうしてくれたほうが嫌でも横になれていいかもしれない。
 破れるぞ、と誰かの声がした。その言葉通り、はち切れんばかりに膨らんだ何かが炸裂する。
 だが、覚悟した何かは来なかった。
 代わりに来たのは夜だった。波というには高さがあり、水と言うには鋭さがある何かの群れを、窓に下ろすカーテンのように優しく遮る夜空。血と汗で重たくなってしまった前髪を揺らした夜風は、ほのかにどこかで嗅いだ香りがする。
「――間に合った」
 耳に響く低音は少しだけ息を切らしているようだった。そんなに急ぐことないのにと笑ってやろうとしたが、もう顔の筋肉も動かしづらい。もたもたしているうちに夜が近づいてきて、根でも張ったんじゃないかと思うほどに動かなかった足が地面から浮いた。
「痛ぇとこは」
 ――わかんない。
「本のっけるぞ」
 ――おいといていいのに。
「口閉じとけ。走るぞ」
 ――もう開かないよ。
 ちゃんと伝えられたかどうかわからないが、それでも自分を包み込んだ優しい月夜は、ちょっと笑ったように見えた。

***

 海岸の戦場から戻ってきたら案の定即入院だった。いつもの、と言ってしまっても言い過ぎではないほどには薬学院と同じくらいに馴染みとなった黒渦団の治療院で、治療師達によってたかって弄られていた身体が横になっている。幸い致命傷に至るようなものはなかったものの、エーテルが枯渇しかけているから、まあ順当に入院でしょうね、と同じく馴染みになってしまった治療師は言っていた。
 こいつのことだ、きっと無茶な仕事も断らずにホイホイ出かけていって、きっちり言いつけられた無茶をこなしてしまったのだろう。
 常々こいつは「俺平凡だからさ、せめて言われたことはやんないと」などと言っていたし、今回もそのつもりで仕事を請けたのだろうが、毎度毎度つむじをはたきたくなる。
 ――思い出すのは先程の海岸。岩で構築された壁を吹き飛ばしなだれ込んでいった冒険者達は、海岸線の船を飲み込む勢いで巨大になった異形しか見ていなかっただろう。それが目的ではなかったキーンも一瞬目を取られてしまったほどだから、それはしょうがない。
 キーンが見ていたのは、その異形より少し離れた正面で、ただ立ち尽くす傷だらけのこの男と、その周囲に散らかる何かだった。
 正確に頭を吹き飛ばされた痕跡のある異形の残骸。歩行器官を潰されて蠢くだけの異形。異形の姿はないが彼から一定の距離で途切れている足跡。極力少ないエーテルで行動できないように処理されたものが、立ち尽くす彼の周り、ある程度の距離を置いて無数に散っていた。それだけではない、すぐに引っ込められはしたものの、宙に浮いた陣が二つ、新たな乱入者である自分に向けられてすらいた。
 確かにエーテル保有量で見るなら、彼よりも多い人間なんて魔術師にはそれこそいくらでもいる。キーンと比べてすらも少し向こうが多いだけ、その程度だ。きっと彼もそれを指して平凡と言っているのだろう。こいつの、この緑頭の得手はそこではなく、戦闘時ですら崩れない緻密な組み立てと正確な照準にある。だがそれを指摘しても「できる人たくさんいるよ」と言うのだろう。
(どこ見てんだマジで)
 眼鏡にガラス板でも入っているのだろうかと思ったがそもそも伊達眼鏡である。ますますどこを見ているのかと腹が立ってしょうがない。謙遜するのもいい加減にしないと部下達が自信を無くすぞと散々言われているのにこれ。巴術の総本山を抱える海都とはいえ、そんなのが沢山いたらたまらない。
 考えれば考えるほど腹が立ってきた。自分にはあまり関係はないはずなのにという点も苛立ちに追い打ちをかけてくる。
 片手じゃ足りない、あと十回ははたいてやらないと気が済まない。目を覚ましたら即デコピンでもしてやると心に決めて、キーンは呑気に寝息を立てる男の布団を直してやるのだった。

三度の飯が好き

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