トラウマスイッチ中におさんぽするよ
まだくっついてはいない
速いリズムを奏でる身体に、外出用の服を着せる。家から持ってきた上着はすっかりぶかぶかになって、手袋も一回りは大きくなってしまっているようだった。それでも外は風があるからときちんとつけさせて、車椅子に乗せ膝掛けをかけてやり、飛ばないようにとゆるくベルトを巻く。
「き、キンちゃん」
「ん」
「どうしてもいくの」
声に紛れた震えもしっかり鼓膜に届いた。いい年した大人が怯えてんじゃねえよといつもなら茶化しているところだが、今回は事情が事情なだけにそんな気は微塵も起きなかった。
「テメェに必要なことだからだよ」
「どうしても?」
「ああ。そんな長え時間は行かねえし、ここにはすぐに戻ってこれるようにするから、安心しろ」
色の褪せた唇がきゅっと引き結ばれた。ややあってから、やけに大きく見えるようになってしまった目が伏せられる。
「わかった」
「悪いな。……義兄さん、準備できた」
「ありがとうね」
傍らで外出用の鞄を用意していたカームが振り返る。
「それじゃあ行こうか」
「おう」
「怖くなっちゃったり、具合が悪くなったら言うんだよ。すぐ戻るからね」
もう一度、こくんと首が動いた。それを了承ととり、キーンは車椅子の取っ手を掴み、ゆっくり押す。
――緑頭の彼がこの部屋を出るのはおおよそ二週間ぶりだ。薬学院を出るのは更に一ヶ月は経っているだろう。錬金術師ギルドで倒れてここに運び込まれてからというもの、暗闇を、外を、自分よりも大柄な人間を怖がるようになってしまったからだ。だが、カーム達の治療と看護によりまともに話ができる日が増えてきたため、根本的な要因を取り除く方向へと舵を切ることにした。
「見てくるんだ」――数日前、ハーブの香りが漂う薬湯に身を沈めながら、彼は落ちくぼんでぼんやりとした目で言った。
「ずっとついてきて、見てくるんだ」
「誰が?」
「……お、おれを、とじこめた人」
沈まないようにと掴ませていた手に、ほんの少しだけ力がこめられる。これが今の全力なのか、それともそうでないのか、キーンには判断がつかなかった。
「おれのこと、また捕まえようとしてきてる」
「捕まえる? なんで」
「わかんない……わかんない、なにも、わかんない」
溢れ出し、ぼたぼたとお湯に落ちる涙はやけに重たかった。
石の回廊を抜けると、車椅子のタイヤがだんだんと砂を噛み出す。キーンは滑らないように気をつけながらゆっくりと進み、人の気配のする方へと歩いていった。
今日の目標は外に出ること、そしてちょっとずつ人に慣れること――と彼には伝えてあるが、本来の目的は別にある。彼が「見てくる」と言った人間を特定することだ。
否、誰を指しているかというのはもうとっくの昔に解っている。不滅隊の伝手を使って探し当てた彼の昔馴染みから聞き出したからだ。商人としての生き方を捨てる原因となった男は、横恋慕の果てに彼を屋敷の地下へ監禁したらしい。横恋慕なんて感情は、常識の枠外をふらふらと飛んでいるこの男には理解できなかっただろう――というのはさておき、そいつを町中で見かけ付き纏われたことにより、地下でされた仕打ちを思い出してしまった結果、食べ物を受け付けなくなったという。
できることならその男をひっ捕まえて吐かせるところだが、生憎とすぐにできない理由があった。その男はとっくの昔に死んでいて、姿など現しようがないからだ。幻覚を見ているのかそうでないのか、幻覚なら何が関わっているのか、実体があるならそれが何か確認する。それが本来の目的だった。
勿論、本人への負担はできるだけ少なくするため、確認ができたらすぐに戻るつもりだ。何かあったら抱えてでも連れて帰る、そう決めていた。
昼に差し掛かり人手の増えてきた街はいつも通りの賑わいを見せていた。行商の呼び込み、店から漂ってくる水煙草の香り、彩り鮮やかなスパイスや織物、それらを物色する客達。色彩の都ほどではないものの、砂の都の鮮やかな陽光を受けて煌めく街並みは目の覚めるようなものがある。
「……大丈夫か?」
少しばかり丸まった背中に声をかけると、「だいじょうぶ」という返事が聞こえた。消え入りそうではあったものの、嘘ではない。両膝の上に載せられた手が、ぎゅっとブランケットを握りしめているのが見える。
怯えてはいるが、何か特定のものに怯えているような様子ではない。もう少し先に進んでも大丈夫だと判断して、ゆっくりと車椅子を押す。
「良い匂いがするね」
「この時間は特にな。通り一つ先が食い物屋だから匂いがこっちまで流れてくるんだ」
言いながらも久しぶりの空気に少し懐かしさを覚える。ここ最近は薬学院と家の往復だったから、この時間にこの場所にいるのはしばらくぶりだ。だがそれは口には出さない。目の前の小さくしおれた身体が聞いたら、きっとまた聞きたくもない謝罪の言葉を言うに決まっている。
「せっかくだ。何かつまめるもんでも買ってくか」
量がある食事以外にも、軽めの食事やほとんど綿や水と変わらないような菓子だって置いてある。それなら、少しずつだが食べられる量が増えてきた緑頭も数口程度なら問題ないはずだ。そう思って、食べ物屋が並ぶ区画へ足を向ける。
――どっ。
その時だった。微かだが、それなりに質量のあるものがぶつかるような音を、キーンの鼓膜がとらえた。それも一度ではない、一定のリズムで、しかもどんどんと大きく速くなる。
「ぁ」
その音に被るように聞こえてきたのは、小さく掠れた声だった。カームのものでも、ましてやキーンのものでもない。それは、先程の音と一緒に、車椅子に腰掛けた身体から出ていた。
「おい」
「ぁう、う、」
人通りの邪魔にならないよう車椅子を寄せ、前に回り込んで膝をつく。まるで雪の中にいるかのようにがたがたと震える身体。見開かれた緑の瞳はキーンを見ていない。わなわなと震える唇から零れ出る音も言葉の体を成していなかった。
いるのか、とは聞かずとも解った。
いるのだ。この、キーンの向こう側を見る視線の先に。
「義兄さん」
「大丈夫、大丈夫だからね」
カームは言わずとも動いていた。鞄の中から細い鎖のついた小さな瓶を出し、コルクの蓋を緩める。ふわりと香ったのはここしばらくの間で嗅ぎ慣れた香だ。それを緑頭の首にかけてやる。
「ひ、ひっ、や、やだ、」
「戻ろう。椅子は僕が持って行くから」
「おう」
キーンは骨の感触が目立つ腕を取り自分の首にかけさせ、ブランケットごと抱え上げた。それまで少しずつ落ち着いていたはずの鼓動がどんどん速く、強くなっている。視線は相変わらずキーンの向こう側を見ているようだった。目をそらしたい、それでもそらせない、追い詰められた草食動物のような挙動に、キーンもつられてそちらに目を向ける。
そこには何も居ない。行き交う雑踏の中止まっているのは、店の品物を見ている客と客引きだ。やはり幻覚か、そう思った刹那、砂を噛む靴底の音が聞こえた。ちょうど緑頭の視線の先、路地の隅のあたりだ。
誰もいない暗がりになっているのに、キーンの耳はなぜかそこから生き物の音を拾っている。
何かが居る。だが、それが何かを確かめる余裕はない。
「悪い」
抱えた身体に一言謝ると、キーンは薬学院へと走り出した。