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こーはくさんが薬漬けの夢見たっていうから
出張から帰ってきたら薬漬けになってた話

 泣き声が聞こえる。
 階段を登り、半ばに差し掛かったあたりから、キーンの耳は泣きわめく声を拾っている。隣を歩いているスウィフトは何も聞こえていない様子で、キーンと同じように淡々と足を進めていた。
 この声の主が、今から会いに行く相手とは違う人間のものであってほしい。淡い期待を抱きながら歩みを進めていくが、その期待はスウィフトが足を止めた扉の前で呆気なくも消え去った。
「ここだ。今日はちょっと……厳しいかもしれないが、会っていくか」
 その頃には、スウィフトの耳にもその泣き声は届いているようだった。目の前の扉の奥から聞こえてきているからそれも当然だろう。
「厳しいって、何が」
「会話ができないかもしれない。友人ならまた違った反応をする可能性はあるが」
「会ってく。そのために来たんだ」
 そうか、とスウィフトは頷いた。そして分厚い扉のノブに手をかける。
「——ァァァアやだ、やだ、これはずして、あ、あ、ぁああああ」
 わずかな隙間から叩き付けられたのは感情の塊だった。一気に音量の増した悲鳴ともとれる泣き声に、僅かにキーンの眉が寄る。だが、躊躇うことなく部屋の中に足を踏み入れた。
「うぁぁあああ、あ、いたい、いたい、くるし、く、あ、ぁあああ」
「保護できたのは一昨日。昨日目を覚ましてからはずっとこうだ」
「……攫われたのは」
「貴殿がクガネに発ってからすぐ。彼も長期任務でな、気付くのが遅れた」
 泣き声の中、淡々とした声でスウィフトが説明する。
「それからずっと、我々や黒渦団の情報目当てで非合法の薬を飲まされていたようだ。……彼はずっと耐えてくれていたのだが、そのせいで薬の量が増えてしまったらしい」
「……」
 キーンは黙ったまま、視線の先の泣きわめく塊に近づく。
 それは不思議な服を着ていた。交差した両腕の袖が身体の脇に固定させられ、さらにその服ごとベッドに拘束されているせいで、本人は身動きすらできない状態になっている。普段でもこういった拘束を心底嫌がる彼のことだから、きっと今の格好は苦痛でしかないのだろう。涎と、鼻水と、そして涙でぐちゃぐちゃになった顔には恐怖が滲んでいた。
「自由にすると腕を掻いてしまうのでな。致し方ない処置だった」
 視線の持つ意味に気付いたスウィフトがさらに付け加えた。
「アレ外していいか。怪我させないから」
「……だめだ、と言っても聞かないのだろう」
「わかってんじゃねえか」
 その一言を返答と受け取り、キーンはベッドの横に置かれた椅子に腰掛けた。ここまで近づいてようやく気配に気付いたのか、それまで掠れた音しか出していなかった喉から、泣き声以外の単語がひり出される。
「ぁああ——あ、だれ、だれ? なに、やだ、なにするの?」
「何もしねえよ。苦しいだろこれ、外そうな」
 自分が誰かすら解っていない様子に心が軋む。だがそれを押し殺して、戸棚の中に入っていた綺麗なタオルで顔を拭いてやり、腕や身体の拘束も解いてやった。
「え、いい、いいの?」
「ああ。引っ掻かなきゃいい。引っ掻きたくなったら言え、抑えてやるから」
 乱れてしまっている髪を撫でてやり、いつもの病衣とは違ってごわごわした生地に包まれた肩に手を添える。そのまま抱き起こして同じ目線にしてやると、忙しなく左右に振れる緑の目を真正面から見つめた。
「キツかったろ。間に合わなくて悪かった」
「う?」
「なにか食いてえもんあるか? クガネのみかんとかどうだ? 買ってきたんだ。ほしいもんでもいい。レジーに持ってこさせるから」
「ほしいもの」
 緑の目がようやくキーンを捉える。躊躇、怯え、そして恐怖がぐちゃぐちゃに綯い交ぜになった瞳は、やがてもう一つの感情を形作る。
 ひび割れた唇がおそるおそる紡いだのは、
「お、おくすり、ほしい」
「……薬」
「ぁ、あ、だめ、だめですか……? だめ、えっと、あの、なんでもするから」
 淫蕩。懇願。必死で絞り出した愛嬌。恐怖を下地にちりばめられた感情が、またぐずぐずと泣き声に溶ける。なんでもしますから、と繰り返す友人に、ただキーンは「ごめんな」と言うことしかできなかった。
「薬はな、テメェの身体に悪いからだめだ」
「だめ、……なんでも、するのに、だめ、なの? やだ、くすり、やだ、あ、」
「ごめん」
 骨の目立つ身体を抱き寄せる。発つ前にどこかの酒場で、やっと筋肉戻ってきたよ、と笑っていたのを思い出し、またぎゅっと胸の内が軋んだ。
「ごめんな」
「うぁ、あああああぁ、ぁあああああ」
「ごめん」
 がさがさに掠れた泣き声が収まり、体力を使い果たした身体が大人しくなるまで、キーンはずっと背中を叩いてやっていた。

三度の飯が好き

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