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薬学院の中庭 こーはくさんの呟きにキたのでやりました

 夕暮れの庭を空気が歩いている。
 整備された石畳の、散歩道と呼べるほどではなないがそれなりに長い道を、空気のような男が歩いている。出歩くためのサンダルを履かせているはずなのに、各所に置かれている噴水や水路の音に紛れてしまっているのか、キーンの耳でも足音がほとんど聞こえない。色の薄い病衣が夕日に染め上げられて、周りに溶け込んでしまっているせいもあってか、ただ質量のある気体のようだった。
 男はゆっくりと庭を回っている。時折足を止めて花壇や水路を眺めているだけではあったが、その口角はほんの僅かに上がっているように見えた。しばらくぶりの外だから気分が良くなっているのかもしれない、それなら連れて来た甲斐もある。このまま好転してくれればいい。
「またしわ寄ってる」
 水音を聞きながらぼんやりそんなことを考えていたら、回り終えたらしい空気が――緑頭が目の前に立っていた。
「あ?」
「眉間」
「別にいいだろが死ぬもんじゃなし。で、もういいのか」
「うん」
 よっこいしょ、とおっさんくさいことを言いながら緑頭は花壇の縁に腰掛けた。キーンは重たいからと預かっていた上着を渡す。そしてもそもそと羽織る奴の前にしゃがみ、地面についておらずぶらつく右足をとる。
「折らないでよ」
「折らねえわ。何だと思ってんだオレ様のこと」
 サンダルを脱がせて、靴擦れがないか、爪が割れていないか見ていく。
「痛えとこは」
「ないよ。転んでもない」
「そりゃいい」
 右足を離して次は左足を掴む。こいつの足なんて飲みの時に見かけた程度ではあるが、それでも本来の足より随分細くなってることは嫌でもわかった。だが、外に出て、立って歩けている。ひたすらベッドの上で、立つこともしなかった時に比べれば大いにマシだ。
「前より確実に歩けてんな」
 足の筋肉をほぐしてやると、緑頭は「へへ」と笑った。
「店に立たないといけないからがんばらないとね。結構重労働なんだよ」
「へー」
「紙は重いから」
「あー、言われてみりゃテメェの本重たいもんな」
「あれは装丁も含めての重さだけど、まあ、そう」
 サンダルを履き、またぶらぶらと足を揺らす緑頭の視線がキーンを捉えた。
「持てないと仕事にならないから」
 だが、この視線が見ているのは今ではない。少し前に使った香薬のせいか、こいつの両目は過去を見ている。キーンはキーン、レジーはレジーとして理解しているし、友達についても解っているようだったが、それ以外は違った。まるで、人物以外のレイヤーがすべて過去であるような、有耶無耶な世界を見ている。
 以前から香薬を使ったときに昔と今の境目がおかしくなることはあった。だが、ここまではっきりと、そして長引くことは今までになかった。そもそもの元凶も解っていない以上、カームは慎重に様子を見ると言っていたし、自分もそれには賛成だ。何よりも話ができるから、恐らく過去にあるだろう元凶を探るには丁度いい。
 丁度良いが——居心地は悪い。
「店立つときはオレも呼べよ。手伝わせろ」
「ごめんね」
「いんだよオレがやりてえんだから」
 ここしばらくの間ですっかり癖になった謝罪を遮り腰を上げると、「おら」と緑頭の手を引っ張って立ち上がらせた。ふらついていないのを確認すると、そのまま部屋へと歩き出す。
「気分転換できたか」
「うん。明日筋肉痛になりそう」
「たまには運動しろや」
「そうね」
 鮮やかな夕闇の中、へら、と緑頭が笑う。
 陰影の目立つ頬は見ないふりをして、やけに骨の感触が目立つ手を引きながら、キーンは灯りのともされつつある廊下へ戻っていった。

三度の飯が好き

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