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お気に入りを拾った少甲佐どの
次の日逃げられる

 ここんところ機嫌がいいですね、と言われたのはこれで三回目。ちょっと楽しみが増えてね、と返すのも三回目。それじゃあ先に失礼するよと優秀な同僚に挨拶をして扉を閉めて溜め息を吐くのは二回目だ。
 最近どうも感情が外に出てしまっていけない。常々笑顔でいるように心がけてはいるけれども、それは結局、自分の心の内を外に漏らしたくないがための笑顔だ。仮面が仮面の体を成してないようでは困ったことになる。
 まだまだ修行が足りないらしい。人生精進あるのみだねえと口ひげを撫でながら、夕暮れの海都を急ぎ足で突っ切る。向かった先は別名義で確保している部屋だった。
「ただいま」
 肩書きに対しては割と小さめの、それでも海都にある一般の部屋と比べたらそこそこ広くて壁も厚い部屋に入る。嗅ぎ慣れた香りの中、広いベッドに埋もれるようにして眠っているのは裸の青年だ。彼こそが最近のご機嫌の原因だった。
 青年は昏々と眠っている。入り口から声をかけただけでは起きる気配もない。それもそうだと苦笑いして、ほんの少しだけ窓を開け、部屋に漂う香りを逃がし、枕元のランプに仕込んだスイッチを押した。
「おはよう」
「……んん……」
 声をかけ、剥き出しの肩に手を添えて少しだけゆする。しばらくして瞼の下から現れ出たのはぼやけた緑色の瞳だった。
「よく眠れた?」
「……ん」
 頬に手を添えると、それだけで気持ちよさそうに目を細めて擦り寄ってくる。最初の頃に比べたらすっかり毒気の抜けた目元に唇を落とすと、気持ちいいのかまたふにゃと目許が笑った。
「良い子にしてたね?」
「してた」
 だからもっとご褒美ちょうだいとでも言っているつもりなのか、猫のように喉を鳴らしながら手に頭を押しつけてくる。すっかり従順に、そして素直になったものだ。香薬の効果もあるのだろうが、根はこういう人間なのかもしれない。
 これはそろそろ頃合いだろう。
「君もここに来て長くなるから——」
 片方の手で撫でてやりながら、もう片方の手をベッドサイドの小机に伸ばす。小さな鍵を取り、一番下の大きな引き出しの鍵穴に突っ込んで錠を開けると、小さいながらも細かな装飾が施された取っ手を掴んでゆっくり引き出した。
「そろそろプレゼントをあげようね」
 あらわになった引き出しの中の物をいくつか出して、未だにうとうとしている青年の目の前にいくつか並べてみせる。
 それは図案だった。様々な意匠の刺青が収録された図案集だ。これらは全て、今まで何人もの収集品の身体に、そして己の身体に刻んできたものだった。肌に直接刻み込むことで、お互いをお互いの物とするためのおまじないとでも言えばいいだろうか。最終的にそれが自分のものになったという顕示であり、そして離れていても自分の物であるという証でもあった。
「君にはもう入ってるから、それを活かすのもいいよねえ」
 逸る心を抑えながら、青年の頬のあたり、鮮やかに主張する模様を指でなぞる。これを活かした模様を刻んであげてもいいし、こちらの身体に入れてもいい。できれば君の好きな柄の方がいいけどこれなんかどうかな、そう話しかけながらいくつか案を見繕う。
「ね、君はどう? 好きな柄とか」
 あったかな——という言葉は最後まで続かなかった。
「……君?」
 視線をやった先の彼は微睡みの中、ではなく、大きく目を見開いていた。その相貌には先程まで欠片も存在しなかった感情が——恐怖がはっきりと現れ出ている。そしてその恐怖は、目の前に置いてやった図案に向けられていた。
「えっどうしたの」
「やだ」
「え?」
「やだ、これ、やだ」
「これが? どうして?」
 何も怖くないよ、できるだけ痛くしないようにするよ、そう言ってやってもまるで無駄で、しまいには手も振り払い、図案から逃げるように枕の方へと這いずっていってしまう。結局背中を向けて膝を抱えてしまった。
「君」
「やだ! あっちいけ! やだ!!」
「わ、わかったから、もう何もしないよ。これも仕舞おうね、ほら」
 驚くほど明確な拒絶に、慌てて図案を掻き集めてまたもとの引き出しにしまう。だが、鍵もかけたよ、もう見えないよ、と声をかけても、丸まった背中は警戒を解くことはなかった。撫でて落ち着かせようとしてもこっちに来るなと振り払われてしまったので、これはもうどうしようもないな、と鼻から息を抜く。
「ごめんね、もう何もしないから」
 これ以上驚かさないように静かに腰を上げると、元通りに窓を閉め、そしてまたランプのスイッチを弄った。
「僕も出るからね、もう近くに行かないから、大丈夫だよ」
 そんなことを言いながら部屋から出て扉を閉める。しばらくののち、どさ、と何かが倒れる音が聞こえてきたので再び扉を開けてみたら、枕元のあたりに力なく倒れている青年が見えた。
「あーびっくりした……」
 香薬が効いていなかったのだろうか。いやそれにしては、最初の様子は大人しいペットそのものだったしあれが嘘とも思えない。となると刺青に何か反応してしまったのだろうか。
 どちらにせよ、もう少し待った方が良いだろう。
 変な位置で眠ってしまった身体を抱え、ちゃんと寝台に寝かせてやる。過去を探るにしても名前がわからない現状では難しいだろうから、反抗する意思がなくなるまでここにこうしてつなぎ止めておこうと決め、布団を掛けてやった。手こずったのは残念だが、イレギュラーもそれはそれで面白い。
「君はどんな柄を選んでくれるのかな」
 やがて来るであろう日に思いを馳せながら、甘ったるい香りの中で盗賊鴎は深く眠る青年の髪をいつまでも梳いていた。

三度の飯が好き

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