トラウマスイッチ序盤 まだちょっと元気
んごろろろろ、という遠雷のような低音で目が覚めた。
「……あー、……あ?」
目を開けた途端に入ってきたのは、もふもふの三色の塊とその真ん中に爛々と輝く一対の瞳だ。その瞳の持ち主はこちらが起きたことを確認すると、軽めの頭突きと言ってもおかしくない勢いで頭を擦り付けてくる。
「わかった、起きる、起きるから」
怠い身体をソファーから起こしてみれば、窓の外はすでに深い橙になっていた。買い物から帰ってきたのが昼過ぎだから、結構な時間寝てしまっていたらしい。
「ぷん!」
「はいはい、ごはんな」
勢いの良い猫の鳴き声に急かされソファーを下りると、重たい足を引きずって階下へ向かった。キッチンの奥の棚から猫用の皿を出し、計量用のカップをフードの袋に突っ込んで掬い、皿に盛る。すると、フードが皿に落ちる乾いた音を聞きつけたのか、くっついてきていた猫が待ちきれないと言わんばかりの勢いで足にしがみつき、よじよじと登ってきた。
「やめろって」
危ないからと毛玉の塊を下に下ろす。再度果敢にチャレンジしようとする猫をあしらいながら、フードとカップを元の場所にしまい込むと、いつもの場所に置いてやった。
「はいどうぞ」
「うなん」
ご機嫌な鳴き声を一つ寄越して、猫は勢いよく食べ始めた。市販の安いフードでも好き嫌いなく食べてくれるこの子は本当に財布に優しくて良い子だ。きっと生みの親の躾が良かったのだろう。
うんまうんまと鳴きながらカリカリを頬張る音を聞きながら、ふと壁の時計に目をやった。そろそろ夕食時だ。いつもなら自分のご飯も用意しなければならない頃である。
「…………」
猫を驚かせないよう静かに立ち上がると、ふたたびキッチンの方へ向かう。貯蔵庫——は開けず、猫のご飯を仕舞っている棚にとっておいたパンを取った。小さく切り、軽くトーストすると、そのまま口へ放り込む。
「……ッ」
だが、咀嚼するよりも先、こみ上げてくる吐き気に負けた。
「ぉえ、えっ、……エッ」
すぐそばの流し台に嘔吐く。出てきたものはさっきのパンぐらいだったが、それでも吐き気は治まらない。ないものを必死で吐き出して、胃液も枯れようかというところで、ようやく波が引いた。
「ッは、はぁ、はー……」
口をゆすいで流しを片付け、そのままへなへなと床に座り込む。
ろくに物が喉を通らなくなって、二週間が過ぎただろうか。食べようとすると吐き気がして、むりやり飲み下そうとしても戻してしまう。何度試しても、肉でも野菜でも果物でも変わらない。唯一水だけは飲めたから、今まで培った薬の知識で栄養を補えそうなものを飲んで繋いできたものの、筋肉や体力はどんどん削げていく。
このままではいけない。どうにかしないとまずい。
それはわかっている。わかっているのだが、
(——こわい)
街で見かけた人影。視線を感じて振り返った先で、じっとこちらを見ている顔。忘れようと思っても忘れられない、記憶の中にこびりついた恐怖そのもの。それから先々で見かけるようになった、死んだと聞いていたはずのあの男。
あの男の姿を見るようになってからずっとこうだ。疲れていたから見間違えたとか、そういうことであればよかったのに、あれから度々見かけるのも追い打ちをかけている。だが、近づいて幻かどうかを確かめることもできなかった。怖くて足がすくんでしまうのだ。
それからというもの、口にする食事すべてがあの頃の味になってしまって、どうしても受けつけてくれない。仕事も依頼も幸い力を使うようなものではないから、不安定になっていく魔力を調える薬と栄養剤を併用して何とかしているが、最近それらの効きも悪くなってきた。
連れ戻しにきたのか、それとも別な理由があるのかはわからないが、外で遭遇する男は必要以上に近づいては来ない。徒歩で帰らず転移しているためか家の周りにもいなかった。ただ街を歩いていると、行く先々でこちらを見ている。あれをどうにかしない限りどうしようもないのだろうが、何が目的なのかわからない以上、動くに動けなかった。至極個人的な問題でもあるから周りを巻き込むわけにもいかない。
「はあー……」
大きな溜め息を一つ吐く。
すると、不意に太股に柔らかい何かがぺしんとくっついてきた。見ると、満足げに口の周りを舐めている猫が前肢でこちらの太股を叩いている。
「ごちそうさま?」
「ぷるるにゃん」
片付けろ、の意味らしい。よっこいしょと腰を上げ、すっかり綺麗になった皿を拾い上げる。
「お粗末様でした」
「んーる」
「おやつはまた今度な」
「ぷわん!」
「だから今度だって」
猫の追撃をかわしながら皿を洗い、元通りにしまい込むと、また怠い足を動かしてリビングへ戻る。
食事を抜かすともうほとんどすることがなかった。同居人はしばらく帰ってきていないから、彼の食事を用意する必要もない。シャワーは明日の朝にしてもう寝てしまおうか、どうせいやな夢見て起きるんだし——と考えた矢先、テーブルの上に無造作に置いた魔導書が目に入った。
そういえば、明日はキーン達と遺跡探索に行く予定だった。役割の指定はなかったからいつも通りの装備で良いだろうが、顔やら手やらを隠さないと余計な気を遣わせてしまうかもしれない。確か丁度良い装備があったはずだから、それを着ていけば誤魔化せるだろう。
(あとは薬か)
明日の分のストックはあるから、今から作る必要はない。が、だんだん効きが悪くなってきたのは気がかりだ。
遺跡から戻ったら錬金術ギルドにでも行って聞いてみようと心に決め、ベッド代わりになって久しいソファーに横になる。
寝る気配を察知したのか、頭の近くによじのぼってきた毛玉に顔を埋めながら、ゆっくりと意識を追い出していった。