薬学院の夜のはなし
トラウマスイッチ踏まれて運び込まれた自機とネキニキとモブ
薬学院の夜は静かだ。
急患が入ってこない限り明かりが落とされた病棟は建物ごと眠りについたようで、時折聞こえてくる患者の声以外、空気を震わせるのはうっすらと伝わってくる外の喧噪だけだ。石造りの建物はどこか安らぎを感じる静寂を抱えている。夜の見回りは敬遠されることが多いのだが、個人的にこの空気が好きなので、正直なところ嫌いではない。
ただ、今日だけは少しばかり様子が違っていた。
いつもは静かなはずの廊下に人の気配。聞こえてくる声は、世間話や仕事の連携といったものではなかった。この先にある部屋には、すぐに命の危険があるような重病ではないものの、長期の療養が必要と判断された人が新しく入っていたはずだ。状況が変わってしまったのだろうか。
急ぎ足で角を曲がる。
先には案の定、廊下の突き当たりでしゃがんでいる大きな背中が見えた。
「どうしたんですか」
「ああ——」
ただ答えが返ってくる前に、その答えが耳に飛び込んできた。
「やだ、やだ、ごめんなさい」
か細いが切迫した声が、背中の少し向こうから聞こえてくる。拙い言葉遣いから、子供が迷子になってしまったのだろうかとも思ったが、掠れた声は低い。そしてこの区画の部屋に新しく来たのは成人男性だったはずだ。
「ごめ、やだ、はなして、やだ」
「大丈夫だよ、大丈夫」
悲鳴に被さるようにして続いたのは、低いが穏やかな男性の声だった。心を毛布で包み込んでくれるようなこの声は、この薬学院に勤めている人間なら必ず聞いたことがあるものだった。
「カームさん?」
「うん」
「どうされたんですか?」
「彼がね、怯えてしまってて」
彼、と少しだけ身体をずらしてルガディンの大きな背中から覗き込む。見えたのは、ブランケットを抱き締めて、廊下の突き当たりに背中をこすりつけるように座り込んでいるヒューランの男性だった。痩せ細った身体に緑の髪、そして頬の刺青。事前に聞いていた特徴と一致するが、その身体はまるでひどい熱でも出たときのようにぶるぶると震えている。
「起きたら部屋が暗くて、それでびっくりしてしまったらしいんだ。すまないけど、灯りをつけてきてくれるかい? 暗いと彼を戻せないから」
「ゃ、やだ、もどるのやだ!」
「大丈夫だよ、僕がそばにいるからね。怖いところには行かないから」
ひときわ悲痛な声に、あくまでゆったりとしたカームの声が続く。申し送りで、カームが看ている患者は精神的に不安定になってしまっていること、ゆえに部屋の中には入らずにただ外から確認するだけでいいと言われていたことを思い出した。この様子なら納得だ。
「わかりました、少し待ってて」
「助かるよ」
踵を返し、彼の病室に走る。
カームの言ったとおり、彼の居室は暗かった。ランタンを掲げてみると、枕元のランプの燃料がどうやら尽きてしまっているらしいことがわかったので、急いで取りに行き補充する。明かりを灯し、さらに壁に埋め込まれたクリスタルのランプも操作して部屋を明るくすると、カームと彼の患者のところへ戻った。
「つけてきました」
「ありがとう」
戻ってみたら、カームは患者を抱えていた。青年はカームの服に縋りついて震えているが、先程よりはだいぶ落ち着いたらしい。
「あとは大丈夫だよ」
「お香はいりますか」
「うーん、もう少ししたら落ち着くと思うから、また今度お願いしてもいいかな」
「わかりました」
もう手助けは要らなそうだ。また後できますねと言い置いて見回りに戻る。
角を曲がる寸前、ゆったりとした旋律が聞こえてきた。古い言語のようで内容はわからなかったが、子守歌のようだ。
夜の闇に染み渡るような穏やかな歌声を聞きながら、再びランタンを掲げて廊下を照らす。
更けていく夜の中、どこか懐かしさを感じる旋律が、いつまでも耳の中に残っていた。