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 見ておくと言ってみたはいいものの正直暇だった。
 こんなことなら朝食を買いにいったときにこっそり自分の家に帰って、本なりなんなり暇つぶしの道具を持ってくるべきだったと今更ながらに後悔した。寝起きであまり頭が回っていなかった丁度良いタイミングでたたみかけられたから、すっぽりと失念していたのは一生の不覚としか言い様がない。
「よし」
 暇な白魔道士がやることときたらただ一つ、目についた傷の治療である。
 そして自分は元気いっぱい、一方で近くには未だ治療し切れていない怪我人がいるとなれば次の行動は推して知るべしだ。のそのそとベッドの上に上がると、丸まったまま動いていない布団蓑虫にそっと手をかけ、ブランケットを剥いた。
「……」
 相変わらず歳がよくわからない顔である。アウラだったら鱗や角の具合ですぐ解るのだが、ヒューラン族はどうしても歳の判別がしがたい。ただ、げっそりとこけた頬の血色が、昨日よりもだいぶマシになっていることだけは確信を持って言える。
(そういえば)
 確か右側の頬に傷があった。身体の打撲を優先したため、学者の彼女が何かしていなければそのままになっているはずだ。今日はそこから始めようと決めて、ゆっくりと身体ごと向きを変えてやった。
「よっせ」
 起きなかったことに安堵しながらも、右頬の赤黒い傷をじっくりと観察する。かきむしって血が出てしまったのだろう、膿まではしていないもののかなり広範囲に傷が広がっている。
 ストレスか、それとも他の要因かはわからないが、酷くなる前に処置した方がいいことには変わりない。指先にエーテルを巡らせ、直接触れないようにしながら、ゆっくりと傷を治していく。派手な傷の治療も大好きだが、こういう細かい作業も好きだ。——なんて言うと、あのララフェルに「本当ですかぁ??」と煽られるのだが。
「んん」
 治っていく感触がむずがゆいのか、僅かに青年の喉が鳴った。ただ起きるところまではいかない。目の下の隈が酷いから、睡眠が余り取れないような生活環境に置かれていたのだろう。それなら昨日今日のこの寝方も当然というものだ。
 皮膚に痕が残らないように丁寧に処置をし、瘡蓋や乾いた血を湿らせた清潔な布で軽く落としてやる。
「……?」
 だが、拭い去った布の下から洗われたのは、さらに鮮やかな赤だった。
 また別な傷か、それとも失敗したかと焦って布を除ける。しかし、布の方には血はついていない。それなら何だと再度よく見てみると、その鮮やかな赤は彼の皮膚そのものの色だった。何度拭っても落ちない、皮膚そのものに刻み込まれた刺青だ。意匠もシンプルなハートマークと、ミコッテ達が施すような戦化粧とはだいぶ違うように見えるから、お洒落かなにかなのだろうか——と思いかけて、先程のララフェルが口にした『人身売買』という言が頭をよぎった。
「奴隷か?」
 あまり詳しい話は知らないが、所有者を示す印として、そして逃げられないようにするために、奴隷の身体にこういった刺青を残す者達の話は聞いたことがある。かきむしった痕はもしかするとそれを消そうとしたのかもしれない。
 残念ながら消してやれる技術は自分にはないから、せめて他の傷があったら綺麗に治してやろうと再度頬の汚れを拭いた、その時だった。
「……ん」
 再び青年の喉が鳴り、閉じられていた瞼が震えた。おや、と手を止めた瞬間にうっすらと目が開く。昨日の昼間から今日の朝まで寝ていたから、きっと眠りが浅くなったところにさらに刺激が加わって起きてしまったのだろう。
「起きたか」
 だが、気分はどうだ、とか、具合は悪くないか、とか、そういった当たり障りのない言葉はすぐに引っ込めることになった。
「——ッひあ、あ、あ、やだ」
「おい」
「やだ、やだぁ、ごめ、ごめんなさい」
 焦点がこちらに結ばれた瞬間、目に見えて怯えだしたのだ。伸ばした手を払いのけて顔をかばい、がたがたと震えだす。昨日見せた反応ともまた違うそれに一瞬面食らったが、言葉は通じるとことがわかっただけでもまだマシだと思うことにして、再度声をかけた。
「おい、大丈夫か」
「ひっ、なんっ、なんでもする、するから、くち、くちでもいいから、あ、あんたのも、ちゃんとたべる、たべるから」
「落ち着け。何もしない」
「ひ、……なに、なに、も、しない……? しなくていい、いいの」
「いい。お前が何をしようとしているのかもそもそも知らん」
 は、と過呼吸気味だった息が止まる。そして、がっちりと顔を覆うようにしていた腕が恐る恐る解かれて、濃い緑色の瞳が——昨日とは違い、理性の欠片が僅かに点る目がこちらを見た。
「…………あ、ぇ、……な、なに、ここ」
「リムサ・ロミンサの宿屋」
「……ウルダハ、……戻って、ない……?」
「戻ってない。お前の名前も事情も知らないのにそういうことはしない」
「……そっか」
 蚊の鳴くような声がまるで合図だったかのように、みるみるうちにその両目が濡れていく。
「何があったかは知らないが、とりあえず安心していい環境だとは思う」
 会話ができることに安堵しながらそう続けると、吐き出す息に紛れてしまいそうな「よかった」とともに、大粒の滴が零れ落ちていった。

三度の飯が好き

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