ブラッシングしてほしいナナキ君 / ナナキ+クラウド / 文庫ページメーカー
荷物に鼻先をつっこんでかき回し、目当ての物を引っ張り出すと口に咥え、ナナキは大急ぎで甲板から飛び下りた。そして、人にぶつからないように気をつけながら、村への道を駆け足で抜ける。
村に飛び込み目的の建物を見つけたナナキは、バレットがその扉を閉める前になんとか食らいついた。そして、「オイラもいれて」と言うと、彼がついてくると思わなかったらしいバレットは目を丸くし、その口に咥えている物を見てさらに驚いた様子で「お前」と言った。
「オイラも行きたい」
「おう」
思いの外あっさりとした反応にナナキは一瞬面食らったが、「来るんだろ」と促されて我に返ると、慌てて建物の中に入った。
「おやこんにちは、わんこくん。珍しいね」
玄関マットで肉球をこしこしと拭いていたら、ちょうど昼の休憩を取っていたらしいドクターがにこやかに話しかけてきた。消毒液の匂いがする人間はあまり好きではないナナキではあったが、このドクターはおもしろくて、優しいから話は別だ。あまり医者らしくないところがあるところも、苦手意識を薄めてくれていた。
「こんにちは先生。おいら犬じゃないってばー」
抗議のつもりで尻尾を揺らすと、サンドイッチを持ったドクターは「すまんすまん」と眼鏡の奥の優しそうな目を細めた。挨拶もそこそこに、バレットに続いて隣の部屋に入る。
「ティファ」
「あ、ナナキも来てくれたの?」
ありがとう、と笑うティファはやはり疲れているようだった。声に覇気がないし、目の下に隈もある。
「大丈夫?」
「ちょっと疲れたけど、まだ全然平気。あ、でも少しお腹空いたかな」
「ならちょうどいい、メシ行って来いよ。オレらがいるから」
「そうする。ありがと」
ナナキのことをわしわしと撫でてくれていたティファは、「あとお願いね」とバレットへ言い、部屋から出ていった。
「……ティファ、疲れたって言ったね。いつも言わないのに」
「ああ、ありゃ相当だな。しょうがねえ——なんて言いたくはねえけどよ。今日くらいから代わるかな」
重たいブーツの音を響かせながら、バレットはナナキの脇を通り過ぎ、振り子時計を背にして居たそれに——彼に近づき、膝をついた。まるで小さな子供にするように、下から顔をのぞき込む。
「よう。来たぜ」
彼に話しかけるとき、バレットはいつも、見たことがないくらい優しい顔をしている。前まではそんな顔なんてしなかったのに、今日だって目尻を下げて、マリンが聞いたらびっくりするような声で、そして必ず手を握って言う。そして本人はたぶん、気づいていない。
「調子は前より良さそうだな」
「わかるの?」
「カンだ、カン。……ただ、前は、座れてなかった」
最後に付け加えられた言葉が何を示しているのか、ナナキは聞かなかった。すこしだけバレットの声に何か苦い物が混じったからだ。だがそれも、次に聞こえてきた声からはすっかり消えていた。
「よし、交代だ。オレは外にいる」
「えっなんで? 用事?」
「今日から代わるって言ったろ、先生に話聞いてくるんだよ。それにお前、こいつに話あんだろ。だから珍しくくっついてきたんじゃねえのか」
「話——」
ナナキは咥えた物を見た。荷物を散らして掘り起こしてきた物を見て、そして最後に「うん」と言った。
「する」
「よし。何かあったら吠えろ」
「だから犬じゃないってば」
すれ違いざまにバレットの脚を尻尾ではたくと、ナナキは彼の前におずおずと座る。
後ろで扉が閉まる音がして、彼と二人きりになったところで、ナナキは伏せていた目線を――敢えて見ないようにと落としていた視線を上げた。
「……」
ナナキはこの瞬間が苦手だった。自分でもよく解らない、ずいぶん昔に見た、いまわの際の母の目を思い出すからかもしれない。意識があるようでない、死んでいるようで生きているような、焦点の合わない虚ろな目が自分を通り抜けていく感覚は、心臓がきゅっとなるようだった。だからあまりお見舞いにもついて行かなかったし、来たとしても外で待っていた。
だが、今日は違う。
「……クラウド」
ナナキはクラウドの名前を呼んだ。だが当然、それに返事はない。譫言すらもないところを見ると、どうやらいつもよりも遠くに行っているのかも知れない。
ナナキは思い切って、ブランケットの掛けられたその両膝に前脚を置いた。そしてそこで初めて、口に咥えていたものを、前脚の間、クラウドの腿の上に置く。
「覚えてるでしょ? オイラのブラシだよ」
何の変哲もない、どこかの街で買ってくれた、たぶん200ギルもしないようなブラシは、クラウドがナナキの毛並みを整えてくれるときに使ってくれた物だ。最初は少し気恥ずかしかったが、最近はもう自分から持って行ってお願いしてやってもらうのが習慣になってしまった。
そしてこのブラシを持って行けば、クラウドはいつも、塞ぎ込んでいた時ですら、その表情をほんの少しだけ和らげて「よし、ナナキ、おいで」と言ってくれた。
「ユフィがこれ見つけてね。やろうとしてくれるんだけど、ちょっと痛くてさ。クラウド持っててよ」
だからもしかしたら、何か言ってくれるかもしれないと思ったのだ。喋るまでは行かなくても、反応してくれるかもしれない。手ぐらいは動かしてくれるかもしれない。そう思ったら、いてもたってもいられなくて飛び出してきてしまった。
「……クラウド」
しかし、どれだけ待っても、目の前のクラウドは何か反応してくれることはなかった。鼻でブラシを押し、膝の上に顎を乗せてしまっても、だらんとした手の下に鼻先を滑り込ませても、クラウドはただ細い呼吸をするだけで、いつものあの柔らかい顔も見せてさえくれない。
「戻ってきてよう……」
自分でもびっくりするくらい情けない声にすら、何も返ってこない。前は、戦士なんだろ、なんて言ってくれたのにそれもない。
ナナキはもはや何かを言う気もなくなって、ただクラウドの膝の上に顔を載せる。
だが、しばらくして顔に触れる物があった。ぽたりと落ちてきたのはたぶん水だ。
「クラウド」
もしかして——と上げた顔から、しかしみるみるうちに力が抜ける。
心臓がまたきゅっとなったのを感じながら、ナナキはクラウドの口からこぼれた涎を、優しく舐め取ってやるのだった。