エフェメラル・ホリデイ (1) / pixiv
心地よいまどろみが無機質な電子音でぶち壊しになり、レノは極めて不機嫌な面持ちで目を開けた。
部屋の中はまだ薄暗い。おそらく夜明け前だ。ぼやけた視界の中目を凝らし、壁に掛けられた時計を見つけてピントを合わせると、針が示している時間は午前五時だった。オフの日に起きるべき時間ではもちろんないし、仕事の日に起きる時間でもない。
いったいどこの誰だとナイトテーブルに放ったままの携帯を掴んで、電話をかけてきた張本人の名前を見る。薄暗い部屋の中、眩しく光り輝くその名前は、レノの直属の上司だった。
「……ツォンさんからだぞ、と」
「呼び出しか?」
余った片方の腕でホールドしていた生き物から、不服そうな声が聞こえた。仕事がない日は基本的に寝汚くなるから、今の電話でレノと同様、あまりよろしくないテンションになっていることは目に見えて分かった。いつもよりも数倍低く、かつ起き抜けで掠れた声は、肉食獣の類の迫力を秘めている。ぐるるる、という唸り声まで聞こえてきそうだ。
レノはよしよしとその金髪を撫でる。
「まだ出てないからわかんないぞ、と」
「……うるさいから、早く出るか、切るかしてくれ……」
「はいよ」
一瞬このまま切ってやろうかと思ったが、明日の自分の机がどうなっているのか想像するのが怖かったので素直に通話ボタンを押した。
「はーい、レノさんですよ、と」
『切らなかったことだけ褒めてやろう』
すっかり見破られていた。さすがは上司というべきか、と舌を巻きながらレノは続ける。
「オレまだ遅刻してないっすよ、と。っていうか、今日はオフなんですけど」
『申し訳ないが君の休日はなくなった。出てきてくれ』
「……えーっと、今コスタにいるんで」
『カームからここまでならすぐ着くだろう』
「はっえっちょっと何逆探知して」
『頼んだぞ』
咄嗟のウソも、神羅の技術の前では役に立たないようだった。反論も許さないうちに電話が切れてしまう。こうなってしまってはたとえ休日とはいえ出勤するほかはないと解っているのだが、それを眠気と不機嫌に満ち満ちた瞳でこちらを睨んでいるクラウドにどう説明したものか。
「……オフじゃなかったのか」
「ついさっきまでオフだったんだぞ、と。恨むんならツォンさんを恨んでほしいぞ、と」
「……」
相手の両目がわずかに細くなった。眠いのか、それともますます不機嫌になったのか、レノとしては前者だと思いたいのだが、絞り出された声は相変わらずのトーンの低さだったから、残念ながら後者であるようだ。
「……埋め合わせ」
のしりと圧し掛かってきた。納得のいく理由がなければ逃がさない、という断固たる姿勢を取り始めている。
「あー……、今度の水曜にとびきりイイトコ連れてってやるから」
非常にそそられる体勢ではあるけど離してください、とその両頬を掌で包んでやる。甘い空気に誘われるように、薄い唇を食んでやったら、「しょうがないな」と少しは上向いた言葉が合間に零れた。
「期待しておく」
ここでようやく、クラウドの身体が上から退いた。少々どころではなく名残惜しいが、レノもまたふかふかのベッドから身を起こし、んー、と大きく伸びをする。
「まだ寝とけ」
「……携帯忘れるなよ」
「忘れたら配達頼んでいいか」
「今日は定休日だ。取りに来い」
暖かい空間から抜け出して、脱ぎ散らかしたスーツを拾い上げ手早く着替えると、レノはベッドに寝そべっているクラウドに再びキスをする。正直今日一日いかがわしいことをして過ごす予定だったものだから、この程度で満足できるわけがないが、慎みある企業人として踏みとどまった。やればできるのだ。
「オレ様が帰ってくるまでウワキするんじゃないぞ、と」
「そっちこそ誰彼構わずひっかけるなよ」
再び布団の中に潜り込むクラウドと軽口を叩きあいながら安宿を出る。
どこかで朝飯でも調達するかと頭を巡らせながら、レノは自分が乗ってきたデイトナをフェンリルの隣から引っ張り出した。さほど広くない駐車場のほぼ半分を占拠していたせいか、自分のデイトナがいなくなるだけで大分すっきりして見える。ぽつんと残るフェンリルが、あまり弱みを押し出さない主人の代わりに寂しさを訴えているように見えて思わず笑ってしまった。
「さて、さっさと済ませてきますかね、と」
ようやく明けてきた空の下、エンジンをかけて跨ると、自前のゴーグルを着ける。
まだまだひっそりと静まり返る石畳の街を揺らす力強い音を聞きながら、タークスのエースはようやく舗装されだした街道へと飛び出した。
***
残り香に包まれた二度寝は嫌いではない。それがたとえ、普段は吸わないし苦手な煙草の香りであったとしてもだ。
互いに外を走り回る職種のせいか、一緒に寝られるという機会そのものがあまりないから、相手の存在を感じられる要素が身の回りにあるというのは、独り根でも寂しくない。相手は「オレは逆に寂しくなるんですけど!?」と怒ってきたのだが、そういう質なんだから仕方がない。
兎も角、定休日といういつもより余裕のある睡眠を味わっていたクラウドではあったが、彼もまたレノと同様に、自分あての着信音で目を覚ますことになった。
「——もしもし」
『あ、寝てた? ごめんね』
電話をかけてきたのはティファだった。大丈夫、と答えながら時計を見ると、ちょうどセブンスヘブンが開店する頃合いである。
「どうした?」
『急ぎの依頼が来ちゃって。定休日だって伝えたんだけど……ウォールマーケットの兄貴さん、覚えてる?』
「ああ、あのきれいなお兄さんか」
かなり特殊な方面で世話になったから、顔も名前も覚えている。その後の付き合いはほとんどなかったが、彼が——いや、彼女がいったいどうしたのだろう。
『その人あての荷物らしいのよ。顔見知りだし、困ってるみたいだから、助けてあげられないかなって思って。あ、お代は割増しでくれるって言ってたわ。……大丈夫かな』
「大丈夫だ。送り主は?」
やり取りを続けながら脱ぎ散らかした服を拾い集めて着る。すぐ目に入ったペンを取り、手の甲に送り主の名前と住所をメモしてみると、ミスリルマインの少し先にある小さな街からの依頼だった。ミスリルマイン自体は最近整備が進んでいるから、越えるのにそう時間はかからないが、その手前の湿地帯が広いし、運が悪かったらヌシに捕まる。
そして今日の間の悪さを鑑みるに、捕まらない可能性は低そうだ。
「荷を回収できるのは昼頃になりそうだ」
『うん、伝えとく。ごめんね、ありがとう。……邪魔しちゃったかな?』
邪魔とは、と一瞬考えて、ああと思い当たった。
「レノもさっきツォンに呼ばれて行った。邪魔はしてないよ」
『そっか、よかっ……たわけじゃないわね、それ。何かあったの?』
「聞いてない。——行ってくる」
『うん、行ってらっしゃい』
携帯をしまって部屋の中をざっと確認すると、身支度を整えて宿屋を出た。店主に会釈をして駐車場へ向かい、最後の一台になっていたフェンリルを引き出す。乗る前にふと思い立って、レノに短くメッセージを送るとゴーグルを着けエンジンをかけた。
ここのところ続く快晴が崩れるような気配もない青空の下、クラウドはカームの街を突っ切ると、一路西へと向かった。
***
ヴーンとポケットの中の携帯が震えた。出して見たらちかちかと瞬いているのは、宿屋に置いてきた恋人の名前だ。
(おっ)
早速寂しくなったかと、受信したメールを見てみたら、そこにはただ「仕事してくる」と一行だけが書かれていて、レノは思わず脱力した。
「そりゃねーぞ、と……」
「どうした?」
「なーんも。ただちょっと期待を裏切られた、それだけだぞ、と」
携帯をポケットに入れ、変わりに取り出したのは煙草の箱だ。一本取りだし口に咥え、手早く火を点ける。
「それでよ、相棒。なんか目処はついてんのか、と」
「……何とも言えないな」
「そうだよな、と。ここまで空振りだとやる気も失せるぞ、と」
昼にさしかかった街中を歩きながら、レノは紫煙を空に向かって吐き出した。
——彼らタークスが、オフの人間もお構いなしで呼び出されたのは、ついこの前まで彼らにとってはありきたりな、しかし少しばかり根が深い理由だった。
最初は、タークスとWRO、双方の管理する世界の狭間で起きていた。薄ら暗い路地裏でもなく、かといって表舞台でもない、ちょうど若い学生達がまことしやかに囁く都市伝説やおまじないの類として、だ。だからこそ、目が届くのが遅れてタークス達がその情報を拾い上げたときには、まるで暗がりに群生するコケか何かのように広まっていた。
その都市伝説に曰く——ライフストリームが見えるようになる薬がある。
普通の——といっても効果は普通ではないが——路地裏で目を盗んでやり取りされるようなドラッグであれば、WROが取り締まる。タークス達も情報提供はすれど、自分たちでもっぱら動くようなことはしない。しかし、今回はライフストリームが——魔晄が絡んでいる。その機能はほとんど停止してしまったとはいえ、魔晄に関する情報の大部分を保持しているのは未だ神羅カンパニーであり、その情報をいち早く調べるすべを持っているのが現在のレノ達なのだ。
「ジェノバプロジェクトの副産物として、そういった情報がないかについては、現在集まっている科学部門の連中に探らせている。もし本物だったら、一般人を古代種に作り替えられる薬だからな」
早朝のミーティングで、ツォンそう淡々と言った。
「無論、科学部門の中に裏切り者がいないとも限らない。だから、我々は科学的な情報はさておき、人の流れを追う」
「つまり、売人になり得るようなヤツを追うってことっすかね、と」
「その通りだ」
科学部門がやっている専門的なことに関しては、正直手に余る。しかし、誰がいつ何をして、どんな金が動いたかと言った調査はタークス達の専門だ。特に、自分たちの仲間だった人間を調べるというのは、全くの他人を調べるよりも手がかからない。元手となる情報が手元にある程度蓄積されているからだ。
そして、まずは野に下った人間からと言うことで各地を調べているのだが、この調査がはかばかしく進んでいなかった。
「行方不明者が多すぎやしないかね、と」
「仕方がない。ディープグラウンドもあったからな」
「デスヨネー」
リストに挙げられた有望株の一人である、宝条子飼いの人間も空振りだった。神羅を辞めたあとは片田舎の町医者として、生計を立てていたようだが、その後善行空しく、ディープグラウンドの騒動に巻き込まれて命を落としたらしい。
「他はどうすっかねえ、と。今の情報じゃあ一杯一杯だから、科学部門の結果待ち、ってやつ?」
「そうなるな。……あとは薬を手に入れて、売人をたどってみるか」
「面倒臭そうだが、やってみる価値はあるな、と」
レノはぼりぼりと頭をかいた。流通しているエリアは、南はミディール付近から、北はアイシクルエリアまでとかなり幅広く、そして均等に浸透している。それはつまり、ある特定の地域を根城にして活動している組織が中心となっている以外の可能性を示唆していた。ようやく復旧し始めたネットを中心に流通しているのか、それともそれ以外の方法があるのか。薬を手に入れた人間たちの話はまったくまばらで統一性がない状態で今も掴めていないのが現状である。
「何が決め手になるかわからないからな、と」
「……聞いてみればいいんじゃないか? クラウドに」
「薬を運んだかってか? あいつはそんなの受けねえぞ、と。……でも、そのまま頼むわけないもんな。ルートに被るところがないか、聞いてみるぞ、と」
サンキュー相棒、とレノはルードのわずかに高い位置にある肩を叩く。確かにこれほどの広範囲なら、流通させるための手段は限られてくるだろう。素材は何か知らないが、値段からして陸路と海路だ。そして現在において唯一機能している陸路は、WROの輸送部隊か、もしくは腕利きの運送屋達である。
——互いの仕事のことはプライベートでは話題にしないのが二人のスタンスではあるが、もし巻き込まれているのを知ったら遠慮せずに首を突っ込むのもまた、彼らの間に自然とできていた不文律だ。そして今回は、どうも巻き込まれている可能性が少しばかり高そうだと判断した。
「あー、もうやる気しねーわ。そろそろ休憩しませんか、と」
「賛成だ」
方針が決まれはあとは腰を据えて進めるだけである。幸か不幸か、出回っている薬は今まで扱ったどんなものよりもあっさりと手に入るようだったから、ルートを絞れるようにあとはできるだけ入手先の情報を掻き集めるだけだ。
次なる情報収集も兼ねたつかの間の休息のため、レノとルードは近くのダイナーへと入っていった。
***
三度目の災害に見舞われたミッドガルだったが、今は比較的平和な時間を取り戻しているらしい。危機に敏感なスラム街は、少し前まではひっそりしていたが、現在は徐々に以前の活気を取り戻しつつあるのがわかった。ディープグラウンドソルジャー達が残していった爪痕はすぐに消えるものではなく、所々に残骸や死体の成れの果てと思しきものが転がっていたままであったが、金になるものは全て金にするマーケットの住人達により、自然の摂理よろしくその絶対数はどんどん減っていっている。
「そうねえ、ここ最近はずっと穏やかよ」
ウォールマーケットの奥、旧コルネオの屋敷近くでスポーツジムを経営する「兄貴」こと彼女は、あっはっはと朗らかに笑いながら荷物を受け取ってくれた。
「たまに上から物が落ちてくるくらいかしら。でも、住んでる人がいなくなっちゃったから前よりずっと少ないし。快適よ、快適」
「そうか」
「あらなあに心配してくれてるの? 将来有望な子に気にかけてもらえるなんて嬉しいわ」
「その将来はもうなくなってるから安心してくれ」
「えー、中々よかったのに。はい、どうぞ」
伝票を挟んだバインダーを受け取り礼を言う。相変わらず元気にスクワットを繰り返しているジム生の中に、また少年と言ってもいい年頃の子供が増えているのを見て、クラウドは思わず眉根を寄せた。痩せている。筋骨隆々とした野郎共の間に埋もれているせいもあるかもしれないが、恐らく満足に食べられていないのが一目で判った。
「……やっぱり、まだ多いんだな」
「うん? ああ、あの子達ね。正直言って、まだまだ増えると思うわよ」
彼女は肩を竦める。
「他の人達もね、面倒見てくれてるんだけど……あのおかしなソルジャー達のあおりをモロに食らっちゃったからね、スラムは。生きていくだけで精一杯って人達は珍しくなくなっちゃった。あーでも、可愛い配達屋さんがすぐご飯を届けてくれるから、ここはだいぶマシかな」
「可愛いは余計だな」
また何かあったらよろしくと言い置いて、クラウドはジムを後にした。
これで臨時の配達は終了だ。案の定グラスランドエリアの主に往復ともに捕まったが、さほど時間がかからずに済んだのは不幸中の幸いというものだろう。さっさとエッジに帰って明日の仕事に備えるかと、停めていたフェンリルに跨る。
「クラウドさん」
しかし、エンジンをかける前に聞き覚えのある声に呼び止められた。
声の主はチンピラ風の青年だった。ああ、とすぐに名前を思い出す。
「コルネオの所の」
「ご無沙汰してます」
ぺこっと頭をさげる彼は、コルネオの所の使い走りだった。ここに流れ着く前は整備士をしていたとかで、単車の話をしているうちに仲良くなった一人である。
「何かあったのか?」
「ドンが、クラウドさんに用があるそうです。内容までは聞いてません。『直接話す』と」
「……配達の依頼じゃなさそうだな」
ドン・コルネオを丁度いい小間使のようなものとして使い始めてからだいたい二年が経つが、仕事で使っているアドレスや電話に連絡をよこさず、人をよこして呼びにくる時は、配達とはまた違った用件の時であるというのはおおよそわかってきていた。正直面倒な話ばかりだから断りたいのは山々だが、こちらも度々口を利いてもらっている部分がある以上、跳ね除けるわけにもいかない。
「行く。乗っていくか?」
「俺はまだ用事があるんで」
「そうか」
「いつもすんません」
「いや、こっちこそありがとう」
部下の人間の中にはいい人もいるんだがなあと、心の中でため息をつき、今度こそフェンリルのエンジンをかける。ごみごみしたウォールマーケットは速度を出すわけにはいかないが、それでも旧コルネオ邸からはさほど離れていないため、それほど時間はかからなかった。
門の前にフェンリルを停めたところで、既に向こうは到着に気づいていたらしい。内側から門が開けられ、中から二枚目と言えなくもない男が顔を出した。蜜蜂の館でスカウトをしていた店員だ。
「久し振りクラウドちゃん」
「その呼び方はやめろって言っただろう」
苛立ちを全面的に押し出しながら、招かれるままに中へ入る。甘ったるい匂いはあの時の屋敷と同じだが、内装はまた一段とボロくなっていた。
甘さと埃っぽさが絶妙に混じった廊下を歩きながら、クラウドは二言三言、男の話に乗ってやる。
「また女装してよ。今度は個人的にさ。あの時から目ぇつけてたんだけど」
「あの時のあんたの目が節穴だっただけだろう」
「そんな硬いこと言わずにさ、考えといてよ、ね」
にっと残念な笑顔を浮かべると、部下の男は大きな扉の前で立ち止まった。
「ドン、今大丈夫ですか? クラウドちゃん、来てくれましたよ」
「ほひ!」
相も変わらず間抜けな返事のあと、しばらくしてから「通せ」といった声が聞こえた。
「了解です。ほらクラウドちゃん、お待たせ」
既にちゃん付けするなと訂正することは止めていた。だらしのない笑みを浮かべる部下の顔を睨んだあと、部屋の中へ入る。
スラムの王様の部屋は、旧コルネオ邸とはまた異なった悪趣味な空間だった。あの時はごてごての成金趣味に固められていたが、今は連続殺人犯の部屋と言っても過言ではない、異様と言ってもいいインテリアである。壁を埋め尽くすありとあらゆる年代の女性達の写真、写真、写真。嫁探しをしなくなった、というよりも出来なくなった彼が、金儲けのためだけに作り出した本来の部屋がこの装いなのだろう。唯一変わらないのは、でんと置かれているベッドぐらいだろうか。
「……悪どい商売してるな」
「ほひ、ほひ! 最初から褒めてくれるたあ、随分機嫌がいいなあクラウドちゃんよ」
車椅子に座り、以前よりもだいぶ萎びてはいるが、それでも双眸に執着と欲を湛えた老人——コルネオは、高そうな葉巻をふかしながら言った。
「ディープグラウンドソルジャーのお陰でまた増えた。ほひ、行方不明者の捜索ってのも、中々いい商売だよ。どんな時でも家族の情はカネになる」
「……で、今回俺を呼んだのは?」
「ほひ、怒らないの? 怒らないの?」
「怒るだけの体力が無駄だ」
かろうじて部屋の隅に押し込められている革張りのソファーに腰掛け、足を組む。不機嫌さを押し出してようやく、コルネオは本題に入った。
「おまえのウデとツテを見込んで、頼みがある」
「荒事か?」
「ほひ〜、あったり〜!」
「……公序良俗に反するようなことだったら、受けないぞ」
この前うっかり受けかけた話を、クラウドはまだ忘れていない。部下が襲われたのなんだのと言って持ちかけてきた小さな組織の掃除が、新しい地域に風俗店を開くための地ならしのためだったと前段階の確認で判明したのは、つい二ヶ月ほど前のことだ。あの時リーブの助言がなかったら、恐らくまんまと乗せられていただろう。
「今回はそういうんじゃないから、ね、ね?」
するとコルネオは実に気持ちの悪い猫なで声を出した。三年前の悪夢が蘇り、ぞぞぞと嫌な寒気が背筋を這い回る。
「WROに調べてもらったっていい、なんせこの後正式に頼む予定だからな。なんなら目の前で電話しようか?」
「いらない」
さっさと言えと急かすと、コルネオは安っぽいバインダーを渡してきた。中にまとめられた書類をさっと見ると、ここ最近で力をつけてきた組織の情報のようだ。本拠地、勢力範囲、構成人数など、事細かに書いてある。
「こいつらがどうしたんだ」
「おれの庭を荒らしてきて困るんだよ」
「……帰る。自力でなんとかしろ。WROも乗らないぞ、それだと」
「ほひ〜、待った待った! それだけじゃないんだ!」
コルネオは目に見えて焦った。
「そいつらの成長の仕方が不気味でしょうがないんだ! 長いことスラムの臭いを嗅いできたおれには解る! そいつらは今までと、全く違う毛色の何かを商品にしてやがるってな」
「それは?」
「それが見えてこない。カネだけ奴らに入ってる」
だから不気味なんだよ、とスラムのドンは言った。演技の可能性は勿論あるが、いつものおどけた様子はない。今のコルネオは、以前の館で垣間見せた、長年このプレートの下を取り仕切ってきた首領の表情を浮かべている。
「このスラムはおれの庭だ。庭の中で焚き火をされちゃあ、飛び火が怖くておちおち寝てられん。それに、この辺りには孤児が多いだろ。真っ先に餌食になるのはあいつらだ、おれのカモが減るのは避けたい」
「……」
クラウドの脳裏に、ジムで見かけた痩せた少年がふと蘇った。そして、身近な家族の顔も。
——つくづくこの男は悪党だ。相対する人間が、何に弱いのかを知って、うまくそこを突いてくるのだから。
「……わかったよ。もし捕まれば、明日リーブに話す」
「良いよ良いよ、ほひ〜! あっ、礼はなんだ、何が良い? 今回はオジサンちょっとフンパツしてもいいぞ〜!」
「そうか、じゃあオジサン、俺にプレゼント頂戴」
「ほひ、何がいい? 何がいい?」
クラウドはにっこり笑って足を組み替える。そして、壁一面の写真を指差した。
「人探し用の掲示板に貼ってあった、WROの軍服着てる写真。剥がしたやつ全部くれ」